悲劇の時代

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悲劇とは、時間が主観によって極限にまで圧縮されたところに起こる。
感情が極限にまで凝縮され、「今」が、永遠の時間を切断してしまうところに起こる。
感情の限りない振動が時の流れから遊離するときに起こる。
床を跳ねるピンポン球のように、悲劇は、時間の無限の濃縮の中に起こる。
1回目に1秒、2回目にその半分の2分の1秒、3回目にそのまた半分の4分の1秒、……、こうして感情がピンポン球のように無限の振動をくり返すとき、とどまることなき無限の過程は決して2秒という時間の壁を越えることができない。
こうして、悲劇が起こる。絶望が起こる。
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クレタ島に文明が栄え、ギリシャはまだ文明揺籃期にあったころ、クレタ島の迷宮に押し込められた怪物が、アテネの町から9年目ごとに7人の青年と7人の乙女を餌食として差し出すよう求めてきた。
あるとき、送られてきた青年の中にテーセウスがいた。クレタの王女アリアドネはテーセウスに恋をし、迷宮に入るテーセウスに知恵を授けた。糸を持って迷宮に入り、怪物を退治したあと、糸をたぐって出てくればよいと。
テーセウスはアテネの王エーゲウスの王子で、自ら餌食として差し出されることを志願し、怪物を退治しようと決意してやってきたのであった。
アリアドネの知恵によって首尾よく事をなし終えたテーセウスは、アリアドネをともなってクレタ島を脱出した。
しかし、ここで悲劇が起こる。
テーセウスは喜びのあまり、父エーゲウスとの約束を忘れていたのだ。父は、息子が生け贄を志願しクレタ島に旅立つとき、こう言った。
「無事怪物を退治して帰国できたときには、白い帆を上げて港に入れ。それがかなわず、お前が死んだときは、黒い帆の船をアテネに寄こすように」
岬の上からテーセウスの船を毎日見張っていた見張り兵は、ついに沖に船影を見つけた。しかし、それは黒い帆の船であった。
王宮にすぐさまその知らせが届いた。期待に胸を膨らませていた王は、黒い帆の船だと聞いて、絶望の淵に沈んだ。船が港に着くのを待つこともせず、王は崖から身をおどらせた。
それとも知らず港に着いたテーセウスは、華やかに凱旋を祝ってくれるどころか、悲しみに打ち沈んだ民に迎えられたのであった。

激しい感情の振動が、父王エーゲウスに流れる時間を極限にまで押し縮めてしまったことによる、衝撃の投身自殺であった。
せめて船が港に着くまでは、そしてことの真相を確かめるまでは、と考えるのは第三者の外在的時間感覚である。当事者の凝縮された感情の中では、時間はもはやある地点を越えることができないのである。
そこに悲劇がある。
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これを神話の悲劇、仮想的悲劇と言ってはいけない。
人類が経験してきた大きな戦さの大半は、第三者的時間感覚に立てば、必ずや回避できたものであろう。
今も、自殺という悲劇が跡を絶たないと聞く。
人はいったん絶望の淵に立つと、ピンポン球のように無限に感情が振動し続けて究極の一点に押しこめられたあとにも、実は何らの不連続点もなく時間は先に続いていくという事実が見えなくなるのだ。自分の時間はそこで断ち切られてしまうと、思い込んでしまうのだ。

究極的絶望を体験したあとにも、人は過去を捨て、再生し、しかし自己という一体的連続性は維持したまま、新しい道に進むことができる。しかも、究極的絶望という体験を強力な土台として、一段高い道に。

悲劇の時代は、神話の中だけの話でもなく、今だけの話でもない。人類の歴史は総体として悲劇の時代に埋没している。しかし、その中においても、悲劇性の密な時期と疎な時期があった。
第二次大戦という悲劇性の密な時代を経て、しばらくは疎な時代に入っていたのかもしれないが、その安心感の土台を覆すような現象がふつふつと泡立ち始めた今、さまざまな意味において、密な波の到来を予感させる時代に入ってきていると言える。

全員が当事者的発想に立ち始めると、世の中は悲劇どころか、狂気の時代となる。戦国の世のように。第三者的時間感覚をもつ人の出現が、今、強く求められている。

(2010/12/17)

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