道後・農事試験場(5)~サクラ・アオギリの思い出~

 農事試験場には、要所要所にさまざまな木が植わっていた。研究用というよりは、憩いの空間を作ることが目的の木々であった。ぼくの記憶がそのすべてを正確に反映しているとは思わないが、さまざまなエピソードをともなって鮮明に覚えている木々のいくつかを、ここに書き記しておきたい。子供時代の体験には、人が自然と関わる原初的なありようが濃厚に現れているように思えるので。


【サクラ】

(写真1)
sakura01.jpg

 写真1はこの春撮ったイメージ図にすぎないが、農事試験場には桜の大木が2本あった。事務棟の南と、講堂の東。図1で「C」と印している2箇所である。どちらの桜にもぼくは、切なく甘い思い出をもっている。


(図1)
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 まず、事務棟の南の桜。思い出は、小学校に上がる1年前のこと。

 当時、幼稚園は、今で言う年長組の1年間だけ通うのが普通だった。ぼくにもそのときが来ようとしていた。にもかかわらず、母は、父が始めたばかりの油揚げの仕事に追い立てられ、ぼくの幼稚園のことなど頭に浮かべるゆとりもなかった。年があらたまり、入園まであと2,3ヶ月となってから、はたと気づいた母は、ぼくを連れて近所の幼稚園に出かけた。だが、時すでに遅し。ただでさえ競争厳しい団塊の世代のこと。「満員です」と、すげなく断られてしまった。

 幼稚園は農事試験場から道後公園に行く途中にあった。断られた日のことをぼくははっきり覚えている。すでに子供たちは帰宅して、園内はがらんとしていた。母と二人で門をくぐり、返事を待たされている間、「しばらくこの教室で遊んでてもいいのよ」と、応接に出た女の先生に言われた。色とりどりの遊具や絵本が物珍しかった。その間、せいぜい10分ほど。それが、ぼくの幼稚園体験のすべてなのだ。

 返事を知らされ、母はぼくの手を引いて外に出た。「ごめんね、幼稚園には入れてくれないんだって」、そう言ったときの母の悲しげな目が、ぼくをも悲しくさせた。とぼとぼと電車通りを帰ってくるとき、西空があかね色に染まっていた。静寂に包まれた幾層もの深紅の雲の棚引きを、ぼくは今でもはっきり目に浮かべることができる。それ故かどうか、今でもぼくは、夕空を見上げるとき、人生の悲哀をその上に重ねて見ないことはない。

 4月になり、近所の友達が幼稚園に通うようになったとき、ぼくは一人取り残されてしまった。年下の子を相手に遊ぶしかなかった。

 それを見た母は、忙しい仕事の合間を縫って、ぼくを遊びに連れ出してくれるようになった。といっても、今覚えているのは二度きりなのだが、……。

 その一度が、農事試験場だった。それも、歩いて1分とかからない事務棟の前。満開の桜だった。桜の周囲にはちょっとした草地があり、母と花を摘んで遊んだ。そのとき、桜というものを知った。満開の花びらよりも、目線の高さの幹に、ぼくはなぜか興味を引かれた。古木の幹は太くてごつごつしており、独特のよこ縞模様が走っている。その縞模様こそが桜なのだと、母に教えられた。

 以来、桜を見るたび、あの日のことが思い出される。母と遊んだあの草地、両手で抱えきれないほどの大きな幹、幾本ものよこ縞模様、「さわってごらん」と言われて手で触れた幹のごつごつした感触。これらすべてが、桜を見るたひ必ず潮のようにぼくの脳裏に押し寄せてくる。

 この種の現象をぼくは「原風景」と呼ぶことにしている。事務棟の南の桜は、ぼくの桜の原風景なのである。


 講堂の東の桜にも、なんだか夢を見ているような甘く懐かしい思い出がある。3年生の春。満開を過ぎた桜が、花吹雪となって散り始めたころのことだ。

 その日ぼくは桜の木の下で女の子たちと遊んでいた。ままごと遊びをしていた。おそらくままごとも、いや、女の子と遊ぶことすらが、ぼくにとっては初めての体験だった。そこにいたる経過は思い出せない。記憶は唐突にままごと遊びから始まっているのだ。

 講堂の東の大きな桜の木の下で、女の子たちとままごと遊びをしている。ムシロの上に座り、目の前には、小さな皿や茶碗、湯飲みなどが並んでいる。ぼくは彼女たちをまねて、無数に舞い散った桜の花びらを拾い集めては、石ですりつぶし、淡いピンク色の汁を作っていた。

 器に汁がいっぱいになると、言われるままの作法で、相手にすすめたり、渡されたり、飲むまねをしたり。少しでも作法を間違えると、うるさく注意され、やり直しをさせられる。ムシロの家にも入口が決まっていて、そこから上がらないと叱られるのだ。

 女の子というのはなんと面倒な決まり事を決めて、自由に伸び伸び遊ばないものかと、子供心にも、窮屈さに閉口した記憶がある。「そんなこと、どっちでもいいじゃないか」などと一言でも言おうものなら、冷たい視線を浴びて、仲間はずれに遭うのは見えていた。

 でも、その窮屈さをもぼくは楽しんでいた。一種の秘め事のような、裏側の世界を覗き見たような、不思議なときめきがあった。彼女らの言うままに、郷に入って郷に従っていた。舞い落ちた無数の花びらが、ぼくを桃源郷にいざなっていた。

 あの桜を強くぼくに意識させたのは、たった一度の体験にすぎない。にもかかわらず、地面を埋め尽くした花びらと、その日の甘酸っぱい情景とは、ぼくの脳裏から離れることがない。桜の下での、淡い夢のような、うつつとは思えぬ情景である。思わず、西行の和歌が口をつく。

  願はくば桜の下で春死なんこの如月の望月のころ


【アオギリ】

 アオギリが対をなして2本並んでいた。化学実験棟の北側である。図1で「D」と印した位置がそれ。

 アオギリを下の写真2に示す。幹は緑色で、一見すべすべしているが、触るとざらざらだ。特徴が際立っているから一目でわかる。

(写真2)
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 これが2本並んでいた。枝を切った痕がこぶのようになっていて、子供が登るには実に都合のよい木だった。

 「あそこで遊ぼう」などとは誰も言い出しはしない。だが、農事試験場を駆け回って遊び疲れた帰り道、ぼくらはよく、養鶏研究所の前から、講堂と化学実験棟の間を抜けた。すると、日陰になったそこに、「さあ、遊んでいって」と言わんばかりに、アオギリが立っているという仕掛けだった。

 ぼくらは、グローブやバットをあたりに投げ棄てると、われ先に駆けていって飛びついた。まるで青蛙が何匹も幹にへばりついているように、ぼくらは幹に取りつき、こぶに足をかけてへばりつく。二本の幹に何人もがへばりついたまま、何をするわけでもない。先端まで上り詰めるわけでもなかった。ただひたすら、動かない蛙になって、とりとめもない雑談にいっときの興を求めるのである。

 ちかごろ、アオギリを見かけることがなくなった。今ぼくが住んでいる松山市の東の郊外に、かつてアオギリ畑があった。畑というのも変だが、アオギリが密集して植わっている一角があった。ジョギングの道々、そばを通るたび、子供のころの農事試験場を思い出した。蛙になって遊んだあの幹の手触りを生々しく思い出した。

 農事試験場の2本のアオギリは、明らかにぼくにとって、アオギリの原風景をなしている。ぼくのアオギリはあのアオギリしかない。

 その後、アオギリ畑はブルドーザーで整地され、巨大な郊外型ショッピングモールの一部に呑み込まれてしまった。

 文明とはこうして、古い多様な価値をこわし、おしなべて平らな一つの価値に平準化するものらしい。平準化の最たるものは、グローバル化だ。科学者が言うように、エントロピーはたしかに増大する一方だ。エントロピーの増大は一様化、すなわち生の死滅を意味する。視界の向こうに人類の滅びが遠望できる。




(2010/12/19)




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