道後・農事試験場(1)~周辺の歴史~

先日来、何度か、子供時代の思い出が濃縮された一帯を歩いてみた。松山市の道後公園から上一万にかけての電車通り沿い、およびその北側一帯である。かつての農事試験場周辺といってもよい。

すでに半世紀が経過し、当時の痕跡は、表通りから見るかぎり、完膚無きまでにかき消されている。敷地の境界線や細い路地も、今となっては、その位置を突き止めることすら困難である。再開発が進んだ結果、敷地を統合して大きなビルが建ち、あるいは、かつての生活の場が住む人もない空き地(駐車場)と化していて、そこに住んでいた人々のため息が漏れてきそうなありさまである。

あまりの空き地の多さに、「空洞化」という言葉が思わず口をついて出る。かつてそこには、人々がひしめき合う職人の町・商人の町があったのだ。細胞が生き生きとうごめいていたのだ。今、その細胞たちは死に絶え、干からびて、すかすかの空洞だらけとなっている。


それについて語る前に、農事試験場周辺の歴史を概観しておく。


【農事試験場周辺の歴史】


(1) 道後温泉(伊予の湯)は、言わずとしれた神代の時代からの名湯である。ヤマト王権のスメラミコトたちにも知れ渡っていた。多くの天皇や皇子たちがここを訪れている。

たとえば、639年の舒明天皇とその皇后(のちの斉明天皇)。彼らは伊予の湯に4ヶ月間逗留した。


(2) 今の道後公園は、かつて、河野氏の居城(湯築城)であった。その期間は、14世紀初頭から、1585年秀吉の四国征伐で滅ぼされるまで。その間、長く道後は伊予の中心地であったと言えよう。

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中央が道後公園(湯築城跡)


(3) 江戸幕府が開かれて後は、賤ヶ岳七本槍の一人である加藤嘉明が勝山(今の城山)に城を築き、武家屋敷や町人町もその周辺に作られたため、湯築城は哀れをとどめる廃城となった。必然、道後は松山の外れの地となった。


(4) その後、明治期まで、上一万から道後にいたる一帯は、城下と道後温泉とにはさまれた、のどかな田園地帯であり続けた。町と呼ぶにたる民家の集まりはなかった。


(5) 明治28年、道後鉄道が道後・一番町間および道後・三津口間に蒸気機関車(いわゆる坊っちゃん列車)を走らせ、後に農事試験場となる地帯の北と西に鉄道線路ができた。城下と道後とが鉄道で結ばれたのである。

道後駅を出発する坊っちゃん列車。明治30年。

なお、道後鉄道は明治33年、伊予鉄道に吸収された。

伊予鉄道は明治21年、松山・三津浜間に鉄道を開設し(明治25年には高浜まで延長)、明治26年には松山・平井間(明治32年には横河原まで延長)、明治29年には松山・森松間(昭和40年に廃止される)を開設し、松山を拠点とする郊外線に力を入れた。明治33年には、松山・郡中間に鉄道を敷いていた南予鉄道を吸収し、さらに、松山市内を走っていた道後鉄道をも手中にしたのであった。

伊予鉄道は、松山における鉄道の独占企業となった。

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明治36年の松山北東部。道後鉄道を買収した伊予鉄道が走っている。


(6) 明治44年、伊予鉄道に対抗して、松山電気軌道が、農事試験場の南を通る路線(現在の市内電車の路線)を開設し、道後から一番町を経由して三津浜にいたる電車を走らせた。これにより、農事試験場の北と西を通る伊予鉄道と、農事試験場の東と南を通る松山電気軌道との激しい競争状態が生じた。

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大正2年の松山。朱線が松山電気軌道。青線で囲った箇所が農事試験場である。上一万(緑印)の南東部で軌道が微妙に折れていて、東西に細長い三角形状の家並み(農事試験場の南西端まで続く)ができていることがわかる。明治36年の地図にすでに見えている何軒かの住宅を配慮して苦心の線引きをしたことが読みとれる。黄色印は後にぼくが住むことになる家の位置なのだが、わが家が面していた東西の道は、三角形状の家並みによって電車通りからは一筋裏通りになっていた。

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上の地図において、黄色印の南西で伊予鉄道と松山電気軌道が交叉している。それがこの写真である。南から北に向かって撮ったものである。


(7) 明治45年、農事試験場が余土村から道後村に移転してきた。なお、余土村に創設されたのは明治33年である。

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右側の建物が農事試験場本館。当時はこのように立派なものだったが、子供時代のぼくが見なれた本館は、全体の形状や雰囲気はまったく同じなのに、なぜか、屋根の装飾ははるかに質素でシンプルだった。屋根だけ改装したのか、建物全体を建て替えたのかは不明である。


(8) 大正10年、松山電気軌道は伊予鉄道に吸収され、それに合わせて、伊予鉄道の道後・一番町間の路線は廃止されて、松山電気軌道が敷いた路線(農事試験場の南を通る路線)に一本化された。


(9) 昭和20年、松山市街地は空襲で焼け野が原になったが、農事試験場周辺は無事だった。


(10) 昭和61年(1986年)、農事試験場は松山市上難波に移転し、跡地の東寄りに、県民文化会館が完成した。

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(11) 平成13年(2001年)、上一万から県民文化会館までの道路拡張工事が完了し、細長い三角地帯の家並み(我が家と電車通りとの間にあった家並み)が完全消滅した。

農事試験場が県民文化会館に様変わりしたことと、三角地帯が消滅したことで、ぼくの思い出の巨大なかたまりは実在を失い、脳裏に刻まれた記憶を残すだけとなってしまった。

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三角地帯の家並みがあったころの上一万。道後方面を臨む。左がその家並みで、左端の建物は三角地帯の南西角。


(12) 平成16年(2004年)、県民文化会館から道後公園までの道路拡張工事が完了した。




(2010/12/9)





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