道後・農事試験場 (7) ~アメンボ,ツユクサ,ユキノシタ,ネムノキ~

 さて、いよいよ農事試験場シリーズも最終回にしたいと考えている。


【アメンボ】
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 ぼくにとって、アメンボの原風景も農事試験場にある。あの異様に足が長く、水の上をすいすい滑るように動き回るアメンボ。

 初めて見たのは小学1,2年生のころ。場所は、「小区画された実験田」と一応ぼくが農事試験場配置図の中で名づけている田んぼである。一枚分ほどの田が、棟上げを前にした新築家屋のコンクリート土台を思わせるコンクリートの仕切りによって、碁盤目状に区分けされていた。一区画の幅は2,3m(1間か1間半)ほど。


農事試験場構内配置図

(図1)
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 この田もまた、ぼくらにとっては楽しい遊び場であった。コンクリートの上を、平均台のようにバランスをとって、走ったり、追いかけっこをしたり。

 コンクリートから足を落とすと失格という追いかけっこに夢中になっていたのを思い出す。相手の動きに応じていると、ついついバランスを崩して落ちそうになる。でも、踏ん張って走り抜ければ十字状の安定地点が待っている。極度な運動神経と反射神経を要する遊びであった。


 田植え時になると、この小さな田にも満々と水が張られた。するとどこからかアメンボがやってきて、スイスイ泳ぎ回り始める。

 ぼくらは常々慣れっこになっているから、水が張られたからといって怖がることはない。トビ職人のように平気でコンクリートの上を駆け回り、アメンボを見つけるとしゃがんで観察した。

 普通の田にいる生き物はたいてい、この小さな区画の田にもいた。というのも、仕切り壁には小さな凹みが作られていて、水がある深さ以上になると、隣の区画と通じ合うようになり、小さな水生生物たちはその凹みを通していつの間にかすべての区画に分散していくのであった。

 アメンボの他にも、ミズスマシ、ゲンゴロウ、タイコウチ、川エビ、タニシなどがいた。


 見ていて楽しいのは何と言ってもアメンボだった。細くて長い足を巧みに動かし、水の上を自在に動き回る。

 泳ぐというか、走るというか、滑るというか。スッ、スッと、前触れもなく素早く前進したかと思うと、唐突に停止する。動きの意外性には目を見張らされた。方向転換も思いのままだ。ぼくらはじっとしゃがんで、時の経つのを忘れてアメンボの世界に没入していた。


 なぜアメンボは沈まないのか、誰もが不思議がり、答えは誰からも出なかった。今なら水の分子間力による表面張力がアメンボを水面上に浮かせているのだと、したり顔で計算までして見せることができるが、初めてアメンボを見たぼくらには、これはもう不思議の国の出来事だった。

 自然界には思わぬところに不思議が隠されていると最初に気づかされたのは、ひょっとしたらアメンボを見たこのときだったのかもしれない。


 コンクリートの上にしゃがみ込み、我を忘れてアメンボの動きに見とれていたあの幼い日のことを、ぼくは決して忘れることはない。ぼくにとってのアメンボは、いつでも、あの小さな田で見たアメンボなのである。



【ツユクサ、ユキノシタ、ネムノキ】

 ぼくが幼いころ、父と母は、軌道に乗りかかった油揚げ作りの仕事に追い立てられていた。毎日汗と油にまみれて働き続けていた。父や母がぼくのことにかまって一緒に外出してくれるのは正月と節句くらいのものだった。普段の暮らしの中で、親に遊びに連れて行ってもらうことなど、そもそも期待してもおらず、思い浮かべることもできなかった。

 それだけに、ほんのときたま得られたそのような体験は、ぼくにとって何より貴重なものであった。日常のありきたりの一風景なら、水に落ちた一滴のコーヒーのように、すぐさま味も素っ気もなくなるだろうが、滅多にないうちの一つなら、深い香りをたたえた鮮明な記憶となって残るのである。


 母と桜の木の下で遊んだ日のことはすでに書いた。あれは小学校に上がる一年前の春だ。


 農事試験場での母との思い出として、もう一つ忘れがたいものがある。その記憶の中でぼくは母からツユクサ、ユキノシタ、ネムノキを教えられた。



 おそらく小学2年生の夏休みのことだ。ツユクサのことも、ユキノシタのことも、ネムノキのことも、それぞれが単独の記憶としてぼくには思い起こされるので、ひょっとすると別々の機会の記憶なのかもしれないが、冷静に考えてみると、当時の母に、そう何度もぼくを農事試験場に連れ出してくれる余裕はなかっただろう。
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 やはりあれはすべて、ある夏の日の一度きりの散策時の記憶なのであろう。その途中で生じた三つの場面の記憶なのであろう。いずれの場面でも、ぼくは鮮烈な喜びに満たされていたため、あたかもそれぞれが独立した記憶であるかのごとく、くっきりと縁取りされて記憶の襞にしまい込まれたのであろう。

 ぼくにとっては、友人たちと日々遊び親しんでいる農事試験場。そこへ母に手を取られて踏み込んでいく新鮮さ、晴れがましさ、誇らしさ。ぼくにとっては、よほどそれが嬉しかったのだ。


 思い起こしているうちに、あれは七夕の朝だったと気づいた。わが家では七夕を旧暦でやっていたから、8月7日の朝だ。小学2年生の8月7日。ということは、1955年8月7日。日付を特定できる記憶なのであった。今はじめてそのことに気づいた。


 なぜ七夕だと言えるのか。それは、

 「ツユクサに降りた朝露で墨を擦り、短冊に願い事を書くと、その願いが叶うのよ」

 と母が言い、それならと、朝早く農事試験場に母と出かけた記憶がはっきりしているからだ。

 実際、朝露を取って帰って墨を擦り、父や兄とも一緒になって短冊に願い事を書いた。前日から用意していた笹にそれをつるした。メビウスの輪のような飾り物もたくさん取りつけた。

 こうして飾り立てた笹を二階に持って上がり、廊下のガラス戸の外側に、紐で結わえて立てた。すべては鮮明な記憶である。

 その後いく日か、七夕の笹がわが家の二階の窓から外に垂れていた。家の前で遊んでいるとき、見上げるといつでもそれが、いかにも晴れ晴れと、美々しく見えた。

 何日かすると、笹の葉はみずみずしさを失い、色あせてしぼんできた。父が取り外したのだろう。いつしか笹は消えていた。

 これらが一連の記憶として、ぼくの中に残っている。


 先ほど調べてみると、1955年8月7日は日曜日である。母と二人でツユクサの露を器に入れて帰ってきたとき、父はたしかに仕事をしていなかった。あぐらをかいて座っていた。記憶との整合性に得心がいく。父は短冊にさらさらと達筆の文字を書き込んだ。六畳間の奥の板の間の部屋だった。


 話をツユクサに戻そう。小さな紫色の花をつけたツユクサを母に教えられたのは、農事試験場の馬小屋の南にあった生け垣の根元だった。農事試験場配置図には、馬小屋の南に「入口」とある。これは門も何もない作業用の入口で、その入口のすぐ南の生け垣の根元にツユクサが群生していた。

 二人でそこにしゃがみ込み、

 「この可愛い紫の花をつけているのがツユクサよ」

 と母に教えられたのだ。小さな器に朝露を集めた。



 ユキノシタの記憶はそれより少し南。やはり生け垣の根元であった。何かを探して歩いていたとき、
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 「あっ、ユキノシタよ」

 と母が言い、明るい緑色に白っぽいスジ模様のある丸い葉が地面に這いつくばっているのを指さした。母は何枚か摘み取り、

 「ほら、裏側が赤いでしょう。ユキノシタって、こういう色をしているのよね」

 とぼくに見せた。

 「昔はこれを採って帰って、薬にもしたし、天ぷらにして食べたりもしたのよ」

 と、母は何だか娘時代の思い出に一瞬立ち返ったような口調になった。ユキノシタはきっと母に何か特別な体験を与えた草なのだろうと、子供心にぼくは思った。

 ぼくにとっても、ユキノシタの独特の緑の色合いと、裏側の毒々しい赤色とは、忘れがたいものとなった。




 ネムノキは、さらにその南。農事試験場配置図に「ネムノキ」と印をつけておいたところに植わっていた。外側の道を歩いていたぼくたちには、生け垣越しに枝を差し出しているのが見えるだけだった。小さな葉がびっしり対になって生えていて、
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 「ネムノキよ」

 と教えられたその瞬間から、独特の可憐で明るいその姿に、言いしれぬ愛着を感じるようになった。

母はたしかそのとき、

 「ネムノキは手で触ると葉っぱが閉じるのよ。眠って目を閉じたようになるからネムノキっていうのよ」

 と教えてくれた気がする。触ってみようとしたが、高くて届かなかった。

 後に知ったことだが、ネムノキは触ると閉じるのではない。夜になると閉じるのだ。触ると閉じるのはオジギソウだ。葉の付き方はネムノキに似ている。

 ともあれ、母と一緒に生け垣越しに見上げたネムノキの葉は、今もそのままくっきりと眼に焼きついている。色合いと姿の何とすがすがしかったことか。


【田植え見学】

 小学3年生のとき、学校から学年こぞって農事試験場に田植え見学に出かけた。1クラスは60名に近い。それが10クラスほどもあった。何といってもぼくたちは団塊の世代なのだ。

 時間をずらして出発し、しばらく田植え風景を眺めたあと、次のクラスがやって来るまでに慌ただしく立ち去る。そんな案配の見学だった。

 ぼくの学校は東雲小学校という。今もある。わが家から歩いて10分弱だった。学校から農事試験場までもほぼ同じ距離。

 ぞろぞろと並んで歩く途中の道はいつもの通学路ではなかった。だが、やって来たところには見覚えがある。見覚えどころか、ぼくの庭のような農事試験場ではないか。


 記憶の中では、見学先が農事試験場だとあらかじめ知っていた節はない。着いてびっくりした。なんだか、自分の家の中にみんながぞろぞろ入り込み、物珍しげに見回しているような、妙な気恥ずかしさを覚えた。

 自分の内側、自分のはらわたを見られているようなものだ。外の世界である学校が、いきなりぼくの日常、ぼくの内的世界につながってきた。不思議なこそばゆさを感じた。


 事前の打ち合わせで、おそらくその日のために早乙女が何人も用意されていたのだろう。いかにも早乙女という伝統的な格好のおばさんたちが何人も並んでいた。

 ぼくの知るいつもの田植え風景とは違い、にぎにぎしく晴れやかな田植え風景が展開された。


 立ち止まって見ていたのはせいぜい5分ほどだろうか。早乙女が一線に並び、後ずさりしながら苗を植えていくのを眺めていた。


 ぼくの印象に残ったのは、田植えよりも、道が田の水面からずいぶん高いことだった。普段見なれているよりもずいぶん道が高く、まるで歌舞伎の花道に立っているように感じられた。その異様な印象が強くぼくの記憶に残っている。

 60名ほどの生徒がずらっと一列に並ぶ威容。腰を曲げて後ずさりしている早乙女。その対比がぼくにはデフォルメされて、実際以上の高低差を感じさせたのであろう。今になって思う。


 帰りは例の小川沿いの道を通った。まさにぼくの日常の遊びの場の中核だ。家の中を、しかも畳の上を、土足でぞろぞろ歩かれているような、ほとんど悲しみに近い感情がぼくの中をよぎった。ここまでは踏み込まないでほしい、そんな気持ちであった。


 ちなみに、東雲小学校は今も当時のまま、鉄筋3階建ての校舎が健在である。中庭をはさんで、同じ形をした2つの校舎が平行に並んでいる。落成は、ぼくが入学する1,2年前であったらしいから、すでに57,8年にはなる。

 当時はこの2つの校舎だけでは教室が足りず、校舎と校舎をつなぐ2本の渡り廊下に沿ったあらゆる部屋という部屋が教室と化していた。講堂にいたっては、薄い板で2つか3つの教室に仕切られていた。

 まさに団塊の世代の特異現象。一過性の現象であった。

 はたして今、少子化の中、東雲小学校はどうなっているのであろう。1クラスの人数が当時とまるで違うとはいえ、まさか教室がすべて埋まっているとは考えにくい。幽霊教室がいくつもあるのではなかろうか。




(2011/1/9)




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