いつも会う人、彼岸花

 犬を連れて、あるいは家内と二人で、あるいは一人で少し遠くへと、毎日よく散歩する。
 歩いていると、同好のウオーカーによく出会う。家の周辺、半径五百メートルばかりの範囲にかぎると、不思議なことに同じ時刻にほぼ同じ人に出会う。
 別に時間を見計らっているつもりはないのだが、「さて散歩しようか」と体の奥に何かうごめきを感じはじめるのは、体内時計とでも言うべき無意識のスイッチによるものらしい。太陽のかげりとか、空気の微妙な肌合いの変化とか、鳥の様子の変化とか、机に向かっていたことによる疲労感とか、ともかく定量できぬほどのかすかな動きや変化に誘引されて、何かある気分がうごめきだし、「散歩の時間だよ」と意識を刺激するのであろう。
 当然日没時刻が大きく影響するから、季節によって散歩の時間は異なる。しかし、短期的に見れば、不思議なほどそれは一定しているものらしい。いや、そうではないのかもしれない。時計の時間で見れば、日によってけっこうばらついている気がする。
 にもかかわらず、一定しているものがあるのだ。それが「散歩情動」だ。

 「散歩情動」を誘引する要素は、案外どの人にも共通していると見えて、ぼくが散歩に出ようと心がうごめいたときには、Aさんも、Bさんも、やはり散歩に出ようと心がうごめくのだ。昨日はそれが6時だったものが、今日は5時半かもしれない。絶対的な時間にはばらつきがある。しかし、「散歩情動」の視点で見れば、毎日変わりはないのだ。
 こうして、何とも不思議な現象が生じることになる。ぼくがある角を曲がって五十メートルばかり行くと、決まって向こうからAさんがやってくる。
 「今日も来るかな」と緊張感が高まる。ひょっとして向こうもそうかもしれない。角を曲がってしばらく行くと、「あっ、やはり来た」となるのである。
 もちろん空振りの日もある。散歩コースは日によって違うわけだから、当然だ。だがそれにしても、偶然とはいえない確率で、あるコースをとったときにはほぼ同じところでAさんに出会う。
 Bさんについても同じだ。Bさんに出会うのは散歩コースの最終盤。車の通る大きな道をわが家に向かって歩いていると、病院の前あたりでBさんとすれ違う。「あっ、また」と、二人ともちょっと驚き、目で挨拶してすれ違う。
 そういえば、数ヶ月前に読んだ本で、あれはベートーベンだったか、モーツァルトだったか、毎日決まって同じ時間に同じコースを散歩するものだから、町の人から、「彼が来たから…時だ」と時計代わりにされたという逸話があった。
 朝の散歩は別として、夕刻の散歩情動は人間の体の仕組みともかかわって、なかなか不思議なもののようだ。
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 そして、散歩情動に導かれた散歩には、決まって何か新しい発見がある。毎日、新しい何かを見つける。
 昨日は、枯れて呆けて色あせた彼岸花の芯に、みずみずしい緑色の玉ができているのを発見した。もちろん誰もが知っていることだろうが、ぼくにとっては「発見」だった。
この緑色の玉、よく見ると、真っ赤に花咲いているときからすでにその芯に存在している。それもまた、昨日知った。彼岸花のあの真っ赤な花弁の芯は緑色なのだ。
 彼岸花は茎がすっと数十センチ伸びて、その先に火炎のような花をつける。茎に葉はない。茎はまさに先端に花をつけるためだけに伸びるのだ。葉をつけるためではない。そして数日後、葉をつけることなく枯れていく。おそらく種を作るという仕事を秘めて……。
(後で調べてみると、彼岸花の花は種をつけないそうだ。生殖器官でありながら実をつけない花。いったい何のための花だ? 彼岸花はもっぱら球根で繁殖する。)
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 じゃあ、彼岸花に葉はないのか。いや、ある。葉が出る時節には葉だけを伸ばす。葉の時節と花の時節が食い違っているのだ。しかも、一見まったく別種のごとく様相を異にして、葉の時節には葉をつける。
 花が枯れきってしまった後に、同じ茎からではなく、まったく別に葉だけを群生させるのだ。そして、冬の間を葉ですごす。その葉に冬の陽を浴びて球根を育てる。そして春には葉はすっかり姿を消している。彼岸花の一年は不思議なものだ。

(2011.10.5)

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