日本の秋・人生の秋

 先日、運転しながらラジオを聞いていると、秋のイメージは、日本では明るさ、さわやかさだが、ヨーロッパでは暗さ、陰鬱さだと言っていた。
 たしかに日本の秋は、色づいたモミジやイチョウやサクラに代表され、いろどり豊かで明るい。静かな秋の日を浴びてちかちかしているイメージもある。
 それに加えて、松山に住む私の感覚では、秋はやはり、たわわに実る柿とミカンのあでやかな朱色。
 そしてまた、郊外に広がるしっとりとした田園風景。たき火の煙がたなびき、稲の二番穂が伸びて薄緑に輝き、畦にぽつんと柿が実をつけていたりすれば、それはもう言わずと知れた松山の秋だ。
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 ヨーロッパの秋は、ミレーの落ち穂拾いのような、地平線まで起伏して続く麦畑のイメージと、深い森に蕭々と降る雨のイメージが重なる。暗い森のイメージは、ケルトやゲルマンの古代の生活にまでさかのぼる根深いものなのかもしれない。

 人生にも秋がある。盛りをすぎ、定年を迎え、もはや新しい開墾はできないかもしれないけれど、長い人生をかけて耕してきた畑の収穫を、のんびり味わい、楽しむ。そんなイメージだ。
 日本の秋のイメージに重ねるとそうなる。
 一方、ヨーロッパ的イメージでいえば、ひたひたと迫り来る老いを自覚し、未来を閉じたものと感じるようになり、過去を懐かしむことが多くなり、日々が惰性で流れていき始める。つまり、人生にアクセルが効かなくなってくる。

 上のイメージは、しかし、古き良き時代の人生の秋なのかもしれない。隠居して余生を楽しむなどという言葉は、今やもう死語になろうとしている。世間を吹く秋風はいよいよ厳しい。若いころから働きつづけた、その余力で残る人生を乗り切るなんて、できない時代に入ろうとしている。
 老いの身をなおも削って生きねばならない、そんな時代が来るのであろう。

 思えば、われわれ団塊の世代は、青壮年期、働くことで親や祖父母の世代を支えてきた。今から見れば格段に豊かだった彼らの年金を、われわれの掛け金がまかなってきたのだ。その団塊の世代が人生の秋を迎えた今、われわれを支えてくれる世代がいない。いないとは言わないが、絶対量が不足している。それに加えて、経済の沈滞により、若い世代の活力がかつてのようには有効利用されていない。
 団塊の世代は、戦争という悲劇にこそ遭わなかったが、泣き面に蜂なのだ。支えるだけ支えて、いざ支えられる身になってみると、その下に支える者がいないのだ。

 同じ働くなら、老いた者は、あくせく目尻をつり上げず、夢をもって働きたい。もはや他人を支えなくともよい。削られていく年金を自ら埋める程度に働けばよい。働くことを楽しめばよい。働くことで、夢を追い続ければよい。
 その意味で、人生の秋は、青春のやり直しでもある。力まず、リラックスして、一つの目標を気長に追いかければよい。
 私もまた、夢追い人の一人になろう。

(2011.11.23)

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この記事へのコメント

yuyu
2011年12月14日 15:54
はじめまして。数ヶ月前に、「ディレッタント」という言葉を検索した時、坊ちゃん日記のエッセー集に出会った者です。それ以後夢中で読ませていただいています。坊ちゃんはすばらしいエッセイストですね。これからも記事を楽しみにしています。

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