ラストエンペラー

 愛媛県美術館で行われている故宮博物館展を見た。
 美術館友の会の会員証を見せると無料になったのが、まず驚きだった。多少は割引してくれるかな、というくらいの気持ちで見せたのに。
 次に驚いたのは、人の多さ。公衆浴場の混雑ぶりを「芋を洗うような」とよく言うが、その言葉がぴったりなまでに、フロアに人があふれていた。
 行列がいっこうに前へ進まず、一点一点を見るのに気が遠くなるような時間がかかる。もうまるで一昔前の国会の牛歩戦術だ。
 それでも何とか一通り見た。
 清朝における皇帝や皇后の日常生活をしのばせる品々が展示されていた。
 贅を尽くしたきらびやかなものだ。
 だが、どうも死んでいるな、これがぼくの実感だった。
 紫禁城の奥深く、無数の宦官や女官に囲まれ、逼塞して萎縮した生活。
 庶民には想像することすらできない贅沢品を手にしていても、どこか生気が感じられない。
 宇宙が狭いのだ。
 狭い宇宙における死んだ贅の数々の中で、ぼくの印象に残ったのは、ラストエンペラー溥儀の子供時代の書の練習帳だった。
 これだけは生きていた。溥儀の命が感じられた。

 溥儀が皇帝として紫禁城にいたのは五歳くらいまでだから、この書はおそらく退位後のものだろう。
 辛亥革命で退位させられた後も、しばらくは紫禁城でささやかな宮廷生活を許されたはずで、その彼が少年時代に書いたものであろう。
 宿帳のような形をした一種のノートに、びっしりと2cm角ほどの大きさの漢字が記されている。子供とは思えぬしっかりした書体だ。繊細で几帳面な性格が、その書体からうかがい知れる。

 溥儀の人生は、われわれには想像もつかないほど波乱に富んでいる。
 第一の人生とも言えるラストエンペラー時代のことは、『ラストエンペラー』という映画でよく知らていれるが、ぼくは十数年前、『紫禁城の黄昏』という、溥儀のイギリス人家庭教師が書いた本で読んだ。以来、溥儀が身近に感じられるようになった。
 革命によって紫禁城を抜け出した幼い溥儀は頤和園に潜んだ。『紫禁城の黄昏』はそこまでの話だった。頤和園は、おそらく溥儀にとって初めて見る外の世界だったのではなかうか。
 そこで見た広々とした庭に、彼は生涯消えることのない憧憬の念を抱いたのではなかろうか。晩年の彼が文史資料研究所に勤務しながら、同時に週に一、二度は植物園に出かけて庭師として働くようになった動機の一つは、幼い目に焼きついたあの庭園にあったのではないかと、ぼくはひそかに考えている。

 溥儀の第二の人生は、満州国皇帝であった。自ら望んだ皇帝ではない。日本軍に担ぎ上げられ、形だけの皇帝になったのだ。
 そして、敗戦後は長いシベリア捕囚の身となった。これが彼の第三の人生である。解放されたのは1959年。その間に厳しい思想訓練を受け、身も心も平民となった。
 続いて中国での平民としての第四の人生が始まる。

 第四の人生については、『わが夫、溥儀』で読んだ。1962年に結婚した妻の李淑賢が書いた本だ。読んだのは一年前。
 李淑賢とは恋愛結婚である。愛もなくあてがわれたそれまでの后や夫人たちとはちがい、真剣な恋愛の末の結婚であった。
 看護婦をしていた李淑賢とは病院で知り合い、溥儀の方が見初めた。以来、勤務を終えた夕方、わざわざバスに乗って市のはずれからはずれへ李淑賢を訪ね、愛を打ち明ける日々が続く。
 こうして二人は愛し合うようになり、1962年に結婚した。そのとき溥儀はすでに五十代の半ばを越えている。結婚後も共働きであった。
 溥儀にとっては初めての、愛ある家庭生活であった。
 上にも述べたように、溥儀の勤務先は文史資料研究所であり、同時に植物園の庭師でもあった。清朝の内部事情に詳しいというのが、文史資料研究所に雇ってもらった理由であった。
 『わが夫、溥儀』によっても、溥儀がいかに勤勉実直な人で、おごらず、過去の栄華を自慢したりせず、感覚が庶民的で、へりくだる人であったかかがわかる。
 そして、彼の書が一級品であったことが書かれている。頼まれて、近所の人や訪ねてきた人に揮毫をすることもあったらしい。
 彼は結婚5年後の1967年、肝臓がんで死んだ。
 光緒帝の墓のそばに、ひっそりと小さな墓が作られて葬られた。
 こんなことを知っていたものだから、今日、溥儀の少年時代の書を見て、何とも言えぬ感慨にひたったのだった。あの丸メガネの溥儀が、書の向こうからぼくを見つめているような気がした。

(2012.2.26)

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