人の死のこと

 何日もうっとうしい雨が続く。
 つい先日,幼いころからの友人の死に遭遇し,死について少々考えさせられたかと思ったら,1週間もたたぬ間に,また一人の死に直面した。
 教会の仲間だった。11歳年上の75歳。
 目立たぬが,本の好きな物静かな人で,ぼくのあこがれのお兄さんだった。
 二週間前,あるグループの会合で一緒になり,隣の席でひとときを過ごしたばかりだった。

 前回の『今年六十のおじいさん』に,「元気な人ほどあっけない」などと書いたが,まさにその言葉通りの最後だった。
 会合のときにも,死の気配などまったく感じさせず元気だったし,死の前日も,普通に車を運転し,食事もし,風呂にも入り,いつもと何の変わりもなかったのだという。
 ところが,翌朝,5時ごろトイレに行き,その帰り,いきなりバタンと倒れたのだ。物音で奥さんが駆けつけると,「急に足が動かなくなった」と言い,そのまま息も絶え絶えになってしまった。救急車で県病院に運ばれたが,6時すぎには息を引き取ってしまった。
 こんなことって,本当にあるのだ。

 実は,県病院でその夜,宿直の担当をしていたうちの一人はぼくの娘婿だった。ひょっとしたら彼が最後を見届ける人になったのかもしれない。不思議な宿命を感じてしまう。
 それにしても,またも人の命のはかなさを思い知らされる出来事に遭遇させられた。

 人は死ぬ存在なのだ。だから人でありえるのだ。
 ギリシャ神話の神々のように,死を持たない存在であったなら,人はとても人ではありえないだろう。やりきれなくて,逆に生きてはいけないだろう。
 日ごと内臓をついばまれながらも生きねばならないプロメテウスには,人はとうていなれない。
 死は,怖いが受け入れねばならないのだ。
 それのみが人を永劫の苦痛から救うのだ。

 ああ,それにしても75歳は若い。64歳はなお若い。
 やり残したことは山のようにあるだろう。
 それでも人は死ぬのだ。
 扉をたたく使者がいつやって来るのか,誰も知りはしないのだ。
 今かもしれない,明日かもしれない。
 やり残しがなく,すっきりするまで待ってくれたりはしないのだ。

 だから焦ってすべてを片付けよう,などとする必要もない。
 何かをやり残して死ぬのが人の宿命なのだと,悟らないといけない。
 道半ばで死ぬのが人なのだ。
 すべてを終える仕事は神にまかせたのでよい。

 家内の父親は,描きかけの絵と絵筆とを机に残したまま死んだ。
 90になってまだ現役で働いていたぼくの父も,新しい製品を開発するための実験材料を机の上に並べたままで死んだ。
 これでよいのだ。
 終わりまで来た,と満ち足りて死ぬよりも,次への歩みの途中で死ぬ方が,人にとってはよりよい死に甲斐になるのかもしれない。

 さてぼくも,その日のための歩みを続けねばならない。

(2012.3.5)

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