絵を描く喜び、散骨した人

 8月に描いた25号ほどの水彩画を秋の県展に出してみようと思い、昨日、画材屋で額に入れてもらった。水彩画を始めて2年半。25号というのは、ぼくにとって過去最大の大きさだ。額に入れると畳半分を越える。ちょっと感激だった。絵の良し悪しは言わないとして、我ながらその努力に合格点をやりたい気分になった。

 まあ、初心者の感激である。ここからが出発点という、そのスタート地点に立った感激にすぎない。

 春の県展とちがい、秋の県展には審査がある。審査で合格しないと展示してもらえない。その関所がぼくにとっては高い壁だ。

 はてさて、どうなることか。

 実を言うと、うんと若いころ、そう二十歳代後半のころ、油絵を県展に出したことがある。審査のない春の県展だけど……。

 あれ以来だ。


 何にしろ、進歩というのは坦々と登る坂道であるがずはない。2年半前に水彩画教室に通い始めてから、飽きもせずに週に1枚ずつ、6号か8号の作品を描き続けてきたことになるが、ちょっとうまくなったかなと思ったその翌週には、とんでもないはちゃめちゃの絵になったりする。

 それが何週も続く。一度穴に落ち込むとしばらくは這い出せない。むしゃくしゃして、もう行きたくないと思うこともある。

 そんなことを繰り返しつつも、最近はようやく自分流の作品スタイルができてきたという気がする。固定してしまうと進歩がないから、常に模索と冒険の日々ではあるのだが、そんな中からも、特に色彩という意味で、自分流のスタイルができてきた気がするのだ。


 この2年半、小さな美術展には何度か出した。そして、会場に展示されている多くの作品を、そして中でも自分の作品を、つくづくと眺めていて、映える絵と映えない絵の違いがわかってきた気がする。

 人の目に何かを訴える造形というものが、ほんの少し、ほんの少しずつ、徐々に徐々にと、つかめてきた気がする。

 ぼくの場合、デッサンはダメだから、色彩でその下手さを補うしかない。動き、リズム、見た目の楽しさ、一種の躍動感といったものが、色彩を通して表現できれば最高だと思う。


 先日、同じ対象をたまたま、プロ級にうまい人とぼくが描いた。そして、2枚の絵を並べて何人かの人に批評してもらった。

「こちら(プロ級の絵)はプロ野球だね、そしてこれ(ぼくの絵)は甲子園だね。プロ野球の技術のすばらしさには脱帽するしかないけど、絵としての若さと躍動感があるのは甲子園の方だね」

 ある人がそんなことを言ってくれた。うれしかった。

 そう言われると、自分には気づかなかったよさが自分の絵の中に見えてくるから不思議だ。それが少々破調のデッサンと、色彩のリズムからきているのかと、自分なりに納得したりする。


 プロ級の技術はぼくにはとても無理。もうこの線で行くしかないのかと、一種のあきらめとともに、これでいいのだという自信めいたものも出てきている。

 まあこれが進歩ということだろう。


 まさに自画自賛である。

 というよりも、芸術というのは、本質的に自画自賛の世界でしか生きられないのだと思う。まずもって、自分が「これで良し」と認める瞬間に至らないことには、筆を止めて制作完了とならないではないか。「これで良し」と思ったものだけが、人の前に作品として出されるのである。そうでないものは「作品」とすら呼ばれないのである。


 評価はもちろん人それぞれだから、絶対的な「良し」などありはしない。自画自賛は自己満足と同義語である。それでよいのだ。おそらく、たぶん、永遠に。



 話は変るが、先日、『あなたへ』という映画を見たことを書いた(「還暦よりの旅立ち」78)。妻の遺骨を海にまくという話だ。

 あれを見たとき、よく似た話があったなと思った。そして、今ふと思い出した。『ピーターラビット』の作者 Beatrix Potter だ。彼女が死んだとき、遺言(文書ではなく、言葉)にしたがって、散骨されたのだ。

 彼女は死の床で使用人にひそかに頼んだのだった。長年住んだ Sawrey (イギリスの湖水地方の村)に散骨してほしいと。

「しかし、誰にも内緒でね。どこに蒔いたかは、絶対に誰にもしゃべったらダメよ」

 そう言い残して、彼女は1943年12月22日に死んだのだった。使用人は彼女の灰を Sawrey に持ち帰り、いまだに知られていないある場所にひそかに蒔いた。秘密は生涯守られたという。


 3年前にイギリスを旅し、ウィンダミア湖畔にある彼女の博物館を訪れたときに買った "Beatrix Potter" (Judy Taylor)という伝記を読んで知ったのだ。

 Beatrix Potter にもまた、一つの信念があったのだろう。その信念が何なのかはわからない。誰にも知られず、永遠に一人だけの眠りにつきたいという、こみ上げるような願い。それがどこから、どのようにやって来るのか、ぼくにはいまだわからない。いつの日か、ぼくにもやってくるかもしれないその願い。

画像

 写真は、"Beatrix Potter" から転載したもの。馬車の上で立っている人が、彼女の灰をまいた使用人。背景は Sawrey から遠くない Hill Top。ここにも彼女の家があった(ぼくも Hill Top の家を見学した。今は小さな博物館)。

 この本を読んだときには、この写真は散骨に出かける彼を撮ったものだとすっかり信じこんだのだが、秘密のはずの散骨の様子が写真に残っているのは変だ。おそらく散骨のときの写真ではない。


(2012.9.17)




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