「表現の不自由展・その後」の中止事件に思う

芸術作品というものは、文学・絵画・彫刻・造形・デザイン・音楽・映像・演劇・バレエ・ダンス・パフォーマンス等、なんであれ、それが表現するものには、創作者・演技者の何らかの意図がこめられている。また、鑑賞者がその作品から受け取る「何らかのもの」も個人によってそれぞれ異なり、当然ながら創作者・演技者のそれと一致しなければならない理由はなく、異ならなければならない理由もない。


ところが近ごろ、自由に見て自由に鑑賞するより先に、「正しい鑑賞の眼点」とでも言うべきものが、他者からSNS等を通じて前もって吹き込まれ、その先入観でもって作品を見ることによって安心感を求める人たち(特に若者?)が増えているように思えてならないのだ。


彼らは、自らの自由な鑑賞力に自信が持てないのだろうか。誰かに「正しい見方」というものを教えてもらわないと、自律的に作品を見ることができないのだろうか。


まあそれならそれで、正直で、良しとしよう。


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だが現実には、他者との同調でしか生きられない息苦しさ・閉塞感が、社会の背景に横たわっているのではなかろうか。多様性に耐えられない狭量な純血主義、異論への集団的排斥欲、多数派に組みしないと自らがいじめに遭うという深刻ないじめの恐怖構造、簡単に言えば異論を主張する勇気に対する冷たい視線、そうした社会現象・社会心理が背景にあるのではなかろうか。それが私にはこわい。


個人が自らの鑑賞を通じて作品にいかなる感想を持とうとも、それは自由である。ときには吐き気をもよおしたとしても、あるいは「こんな作品、展示してほしくない」と憎悪感を抱いたとしても、それは個人の思想信条の自由の範囲内である。そのことを個人として表明するのも自由である。

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だが、権力の側に立つ者が、権力を振りかざして、「この作品は大多数の国民の意に沿わない」とか、「政府・行政の意向に反している」などと勝手にいちゃもんをつけて、公衆の目にさらすことから排斥するのは、明らかに憲法が保障する表現の自由に反している。


権力を持たない者による行為であったとしても、個人的意見の表出という一線を越えて、暴力や暴力のほのめかしによって、威圧的に作品を排斥しようとするのは、やはり憲法が保障する表現の自由に反するだろう。


なぜならば、どちらの場合も、表現者の自由な表現意欲や出品意欲を、作品の内容や価値とは別の次元で、つまり恐怖によって、萎縮させてしまうからである。社会の(SNS的)風潮とか、政府の意向とかを忖度しないと作品を創作できない、あるいは創作しても発表できない。こんな世の中になってしまえば、憲法が保障する表現の自由は、もはや死に絶えたも同然である。


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作品を会場で見てもいない人が、SNSの書き込みだけを見て、排斥に同調する風潮を蔓延させるなど、言語道断、最低である。これはもう、面白半分でいじめを背後からはやし立てる無責任ないじめ同調者と同一である。彼らは直接問い詰められたとき、どう答えるのだろう。なんら個人的意見など持っていない化けの皮を剥がされ、大恥をかくだけだろう。陰に隠れて、匿名で、誰にも知られず、無責任に、自分の意見でもない意見を同調的にまき散らす。最低だ。


その結果、世の中から表現の自由が奪われ、息苦しい日本が作られていく。それを犯罪であり、最低だ。


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芸術作品というものは、いったん作品化されて世に出れば、その時点で、創作者自身からも、鑑賞者からも、独立した存在になる。それ自身で自立する。一個の擬似的「人間」に変貌するのだ。


擬似的人間である芸術作品が内包する生き様や思想信条に対して、鑑賞者が批評し批判することは、いくらでも自由に許される。だが、擬似的「人間」の存在自体を権力や暴力(ないしは暴力のちらつかせ)によって否定するのは、やはり一種の犯罪であり、殺人である。


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人種差別やヘイトスピーチも、思想信条の自由の観点から見て、許されて然るべきではないかという意見もある。だがこれは、芸術作品の自立性とは次元が違う。人種差別やヘイトスピーチ(という一種の表現芸術?)は、現に生きている個人や集団の、人間としての存在をあからさまに、かつ直接的に否定するものだからである。


相手の人間の存在を否定し、生きる自由を奪う思想や信条は、憲法をもってしても保障されないのである。殺人や傷害や脅迫やストーカーが許されないのと同様である。


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名古屋市長や官房長官の発言や、一般庶民による強迫電話や強迫メールが、「表現の不自由展・その後」に対して、芸術的観点からではないところの政治的観点から、途方もない圧力をかけ、その結果中止に追い込んだ(殺してしまった)今回の事件は、日本における思想信条の自由の一大転換点として、後の世の歴史にしっかり刻みこまれて当然だろう。


たとえば、例の少女像。あの作品はいったい誰の存在を否定し、誰の生きる自由を奪っているのだろう。製作者の意図は伝わってくる。そのことに何の罪があるというのだろう。鑑賞者が嫌悪を感じるならばそれもよい。事実と違うぞと思うならそれもよい。芸術作品には必ずそういう側面がつきまとうのだ。科学論文と芸術作品を同一視してはならない。見る人の立場によって見え方がちがう。それだけのことだ。それをもって作品自体の存在を否定してよいわけはないのである。


今回の事件からついつい思い起こしてしまうのは、戦前の演説会や演劇が、政府批判(ないしは批判もどき)のくだりに来るや、たちまち臨検の警察官や特高によってピピピピーと笛が鳴らされて中止に追い込まれてしまった史実だ。あの戦前の発想と、今回の名古屋市長や官房長官の発想と、いったいどこに違いがあるというのだろう。


芸術作品の自立性を認め、金は出すが、内容に対しては口を出さない主義を貫いている愛知県知事の態度を、私はどこまでも支持したい。






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