障害者と向き合う

犬・ネコを40年飼ってき、今ふたたび子ネコを飼うことになったことを何度か書いてきた。

実はぼくは、その40年と同じ歳月、障害のある娘と向き合ってきた。二人いる娘の下の子だ。重度心身障害者と分類されている。

やまゆり園事件の植松被告の裁判が結審し、ひと月ほどで判決が出るという。それをニュースで見るにつけ、過ぎてきたこの40年を、ぼくはぼくなりに振り返ってみざるをえない。

思うことは多岐にわたる。ここではただ一点に絞ることにする。

植松氏は、意思疎通のできない障害者には生きる権利、生きる意味がないと主張している。彼らは、ただいたずらに税金を無駄食いし、介護者の時間と労力を無駄に奪い、社会的資源を浪費するだけの、無意味な存在だと言っている(と彼の主張をぼくは解釈している)。

はたしてそうだろうか。そもそも「意思疎通ができない」とは、いったい誰による判断なのだろう。障害者に寄り添う意志も意欲も愛情もない第三者である植松氏が、意思疎通できないと言っているにすぎないのではないのか。それとも植松氏は、人間を「意思疎通できる人」と「意思疎通できない人」に画然と仕分けする絶対的判断基準、誰が見ても一目瞭然の判断基準があるとでも言うのだろうか。

犬・ネコを長年飼ってきたぼくは、犬やネコとも意思疎通ができると思っている。彼らがいま何を求めているか、ぼくにはその目つきや鳴き声や行動から、まちがいなくわかる。そして、こちらの思いをも、彼らに伝えることができる。

してはいけないことをしたときにただちに叱る。あるいは、「良し」と判断すべきことができたとき、ただちにほめる。こうしたことで、犬・ネコにも人との共存のしかた、生き方を覚えさせることができる。

その共存の生き方を、彼らも快適と感じているし、喜んで受け入れる。彼らと接するぼくの方もまた、それによって幸せを感じ、生きる豊かさを与えてもらえる。

障害者もまったく同じだ。どんなに重度の障害者であっても、その人に深い愛情を持って接している者には、かすかな意思表示が確実にわかるものなのだ。喜んだり、悲しんだり、不快を感じたり、お腹が空いたり、喉が渇いたり、何かをしてほしいと全身で表現したりするのが、まちがいなくわかるのだ。

そうした意思表示に適切に応えてあげたときの彼らの喜びも、またこちらに伝わってくるのだ。

言語による意思疎通だけが意思疎通ではないのだ。

それからもう一つ。仮に意思疎通の困難な障害者がいたとして、その意思疎通の困難さをもって、その障害者の存在を抹殺してよいと、そうそうたやすく言えるものだろうか。そこに正当性ははたしてあるのだろうか。

障害者には、いや人間たる誰にも、命の意味、生きている意味が必ずある。それどころか、障害者には健常者以上に光る何かがある。常々障害者と接する機会の多いぼくには、確信をもってそう言うことができる。

何が光っているのか。それは、この上なく純粋でけがれなき心、無垢な心である。

自分を障害者から区別し、健常者だと思っている人たちの、何とけがれた心、打算の心で日々を生きていることか。それは誰もが知っていること。知っていながら、それが世の中というものさと、さも達観した顔をしてけがれの中を生きている。

障害者に対して、せいぜい傍観者のレベルでしか接する機会のない人には、自分が泳いでいる水を、けがれた水と感じるチャンスもないだろう。障害者の無垢な心に一度でもじかに触れたことがある人なら、その純粋さ、無垢さ、打算のなさに、心の底から共感と感動を覚えないはずがない。

ぼく自身、この40年の間に、娘から何度感動を覚え、自分のけがれを何度痛切に思い知らされたことか。

障害者と共存・共生することで、互いに互いを豊かにしあえ、ないものを互いに補い合えるのだ。

障害者は排除すべき存在ではないのだ。愛の意味を教えてもらい、けがれのなさを教えてもらい、人間として生きていく意味を教えてもらう、ある意味、健常者の教師。それが障害者なのだ。価値ある存在なのだ。障害者とじかに接すれば、おのずとそれはわかるのだ。

自分が彼らと意思疎通できないと一方的に決めつける、その自分とは、いかに愛を知らないけがれた存在であることか。



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