猛暑の芯は衰えてきたが、新型コロナの芯は、これからだ。
35度だ、37度だと言っても、ひところの35度、37度に比べると、暑さの芯が衰えてきたのを実感します。朝方の涼しさがひところとはまるで違うのです。
お盆を過ぎて、いわゆる海では土用波が立ち始める時期です。土用波とは、調べてみると立秋(8月8日ごろ)に先立つ18日間ほどの波(主に台風による)とのことですが、これが立つと、もう海水浴は危険だと、昔の人はよく言っていました。当時の人はお盆が過ぎたあとの波を土用波と呼んで恐れていました。通常は立秋を過ぎると残暑と呼ばれるらしいのだが「残暑波」では平凡すぎる。やはり土用波と呼ばないと実感が湧かないのです。
もちろん昼間の暑さは変わりませんから、どぼんと水に飛びこみたくなるのは若者の自然です。しかし盆明けからは、波が高くなり、勢いがあるため、簡単に流されてしまう。そして「水死」という結果を招いてしまうのです。
(秋の松山市市展に出そうと思って昨日少し手を入れた作品です。締切までにはあと10日。バックのカリンがごてごてしすぎているので、もう少し手を加えようかと思っています。)
二十歳のころ、ぼくが琵琶湖でおぼれたのもこんな時期でした。いや、ひょっとすると9月に少し入っていたようにも思います。カナヅチのぼくにとっては、泳ぐには無謀にすぎるこの時期に、ぼくは沖まで平然と泳いでしまったのでした。そして、そろそろ引き返さなないと帰りの力が保ちそうにないと思ったとたん、手足がつったのでした。まわりにはすがるものは何もありません。完全に見放されたのです。体はどんどん沈んでいって、目の前はたちまち薄茶色に汚れた水ばかりとなりました。死の一歩手前にいることを厳然と思い知らされのでした。
そうかこれが誰もが生涯に一度だけ味わわないといけない死というものかと、三途の川のすぐ手前までやって来て、ぼくは自覚しました。そのとき感じたのは、三途の川の手前にいる実感よりも、なつかしい太陽との別れでした。生まれてこの方、常に一緒で、離れたことのなかった太陽系からぐんぐんと遠ざかっていき、宇宙の広大に無辺に、つまりぼくという精神が生まれたふるさとへと戻っていくのを実感したのです。
そのとき不思議なことに、目の前を猛烈なスピードで、物心ついて以来の無数の場面が流れました。しかも、そのすべての場面に母がいました。父はなぜだか現れませんでした。母を見ると、とにかくなつかしてたまりませんでした。
「ごめん、母ちゃん。こんなところで誰にも知られず死んでしまって、母ちゃんごめん」
心の底でそう叫びました。
死の寸前のところまでぼくは行っていたのでしたが、K君という、一緒に遊びに行っていた泳ぎ達者が猛然と近づいてきて、波間に体を沈めて漂っているぼくの首を持ち上げ、右手一本の横泳ぎで、岸まで連れ戻してくれたのでした。
K君に首を持ち上げられて進んでいるのに気がついたのは、岸に着く直前でした。砂の上に横たえられると、しばらくは、ハーハーくと息絶え絶え。立ち上がることはおろか、体を起こすことさえできませんでした。死んだように横たわっていることしかできなかったのです。
それにしても、湖に沈んでいるときに見た人生の走馬灯とも言えるもの、あれはなんだったのでしょう。なんと美しく、なんとなつかしかったことでしょう。どの場面も、それまで一度として思い出したことのなかった、それでいて過去にたしかに見覚えのある、人生のごくありふれた日常の場面でした。
普通の人生を送り、普通に死んていたならば、一度として思い出すことなどなかったであろう人生の平凡な場面。それが尋常ならざる死に直面したその瞬間、パカッと開いた記憶の扉の奥から、延々と目の前を流れはじめたのでした。どの場面にも母がいました。一つ一つの場面を眺めながら思ったのは、こうしてここまで育ててくれた母への無限の感謝の念でした。母のさりげない言葉や行為が、次から次と記憶から引き出されてきては、目の前を流れるのでした。どの場面も、実に明るくて美しいのでした。
これがぼくだけの体験でないことは、衛生兵であった父が日中戦争の際、上海の野戦病院で、死に行く傷病兵を何十人、何百人と見とった経験からも明らかでした。
いよいよ死ぬと悟った若い兵士らは、死の前に、一人の例外もなく「お母さん」と叫んだというのです。お母さんのいない兵士は「お姉さん」と、あるいは結婚して若い妻のいる兵士は、妻の名前や子の名前を呼んだということでした。不思議にも、「お父さん」と叫ぶ兵士は一人もいなかったということです。ましてや
「天皇陛下万歳言うて死んでいく兵士なんか、父ちゃん一人も見たことない。あれは映画や小説の中だけの話じゃ」
とも言っていました。これが、父が何十回、何百回と目にした率直な体験なのでした。
さて八月もいよいよ下旬に入ろうとしています。うかうか海や川や湖で水遊びをしていると、そこに棲む魔性に引きこまれる時期となってきました。実際、毎日のように、水難事故のニュースに事欠きません。
人間というのは、若いうちは、過去を生きた人々の経験から学ぶことなどしないもののようです。自分がいま味わっている恋愛の喜び、ときめき、不安、快感を、過去数十万年の人類史において、唯一自分だけが味わっている、自分だけの画期的なときめきだと信じ、それに酔うのです。海で泳ぐ楽しささえ、自分だけが味わう人類初めての楽しさだと信じ、危険の中に突入していくのです。
そんなものはもうとうの昔に、過去の人が何億回、何百億回と味わった、誰にでもある普遍的なときめきであることに、若者は気づきません。
若者にとっては、現在の体験が、自分にとってのみならず、全人類にとって初めての体験に見えているのです。だからこそ、若者なのです。
その好例が歌謡曲やポップスであると言えるでしょう。歌われているテーマの8,9割は、恋のときめきです。戦前も、戦争直後も、そして現在も、なんとその点で若者は変わっていないのでしょう。しかもそれを、過去の全人類の普遍的ときめきであると知って歌っている曲は、ほぼありません。自分が初めて味わっている、人類史上初の体験。そう信じて脳天気にそれを歌っているのです。
そして、人類が初めて死に呑みこまれる体験だと信じて、その中に抵抗すべくもなく吸い込まれていくのです。若者は。
そんな若者の典型的な一人であったのが、二十歳のときに琵琶湖でおぼれたぼくでした。とんでもない偶然と、自身の死を顧みないK君の危険きわまりない勇気とが、ぼくの命を救ってくれたのでした。それがなければぼくの命は二十歳で途切れ、それ以後の長い人生はありませんでした。
若かったから、十分な礼を言うこともなかったように思うのですが、今思えば、何度どのように礼を言ったとしても、あの救出に真に応える手段はなかったと思います。
彼は今どうしているのでしょう。
困難に遭ってたちまち崩れてしまった、ぼくのような付け刃の思想ではなく、真に心の底から強固な思想を持った共産党員であった彼です。ひょっとすると今ごろどこかで、地区や県の、場合によっては中央の、党委員や、議員などとして活躍しているのかもしれません。それとも70を過ぎた今、現役を若い世代に譲って、悠々自適の生活を送っているのでしょうか。心の中だけは共産党員の誇りを捨てないで……。
まあそれならば、結果的としては、今のぼくと大して変わらないことになりますが……。
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新型コロナの芯は、猛暑のようなわけにはいきません。土用波が過ぎれば衰えるというものではないのです。秋からは本格的な流行時期を迎えることでしょう。政府はそれにいっさい有効な手を打とうとしていません。将来への想像力をたくましくして、事前対策を打てる官僚がいず、ただただ官邸の「Go tO トラベル」に忖度しているだけのようです。
大変な事態を迎えれば、あたふたとあわてて、「新しい生活様式」を国民にさらに強く求めることくらいしかできないでしょう。国会を開いて法律をほんのわずか現実に合わせる勇気さえない。開けば首相が矢面に立たされる。それがこわくて国会が開けないのです。もはや安倍さんは国の指導者の資格を失っています。早くやめて新鮮な指導者に道を譲るしかないでしょう。
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立憲民主と国民民主が、いつまで経っても合流問題で我を張り合い、一本化する話が進みません。これが今のぼくの一番の気がかりです。安倍政権を、ひいては自民党政権を倒し、大逆転で政権交代を果たす絶好のチャンスを迎えつつあるというのに、野党の不甲斐なさが、自らその道を断ちきっているとしか思えません。
前にも書いたように、尻がふらふらしている玉木さんはもうダメです。反共一本の前原さんももちろんダメ。申し訳ないが、枝野さんもダメでしょう。国民的人気と信頼が得られていない。
既存の政治家ではない、あるいは既存であっても、目立たないところでじわじわと力をつけている新しい国民的(カリスマ的)指導者が現れて、この人なら新しい政権交代後の政治をまかせられると国民誰もが信頼できる人物が出てこないとダメでしょう。
それが誰なのかぼくには見当もつきません。とにかく早く政権交代の受け皿が確定されることを祈るばかりです。
安倍政権は腐りきっています。それを打ち負かせない今の野党も腐っています。野党と言っても、今や安倍政権の御用聞き、補完勢力に成り下がっている維新やN党をぼくは野党と考えません。れいわへの評価は、まだ定まっていませんが……。
社民党は安心できる野党ですが、いかんせん、勢力が弱すぎます。
真の野党、つまり共産党の戦前からの豊富な政治経験と、ぶれない政策に敬意を払い、それと統一を組んで自民党を倒そうとする野党。その出現にぼくは多大なる期待を寄せているのです。
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