社交性のない私、最近情けないなと思うこと

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(庭のカリン、先日まではプツッと小さな芽が出ているだけだったのに、ぐんぐん葉を伸ばしてきた。いよいよ春本番だ。赤い芽はどう見ても花芽にしか見えないが、これが葉芽だから驚いてしまう。)

なんだか情けないなと、最近思うことがよくある。

朝は元気なのに、午後になって机に向かっているうち、どうにもたまらなく眠くなってきて、つい1,2時間眠ってしまうことがあるのだ。イスに座ったまま机に額をくっつけて眠っていたり、脳内は眠っていないのにどうにも目が開かなくなってきて、腕組みをしたまま夢うつつの状態でうとうとしていたり。

こんなことは若いころにはなかった。若いころというより、六十まではなかった。いや七十までか。ここ2,3年だ、こんなことになったのは。

情けなくて泣きたいくらいだ。これが歳というものか。

若いころから体力には自信があった。だから、数字の上では歳をとってきても、身体自体は若いころの元気を残していると思いこんでいた。頭の方も、そうそう早く老いぼれたりはしないと信じこんでいた。

だが、案外そうではないと近ごろ思うようになってきた。人並みに老化の道をたどっていると、現実が自分に知らしめるようになってきた。

いま73歳なったばかりだが、実は10歳以上も年上の85歳の人で、いまだに毎日10キロほどもジョギングをし、山にも登り、冬山にさえ登り、それどころか冬の岩山でロッククライミングまでやり、天気が悪くなると岩の斜面でビバークさえすることがあると言い、さらには小遣い稼ぎと趣味とを兼ねて庭師の仕事をいまだに続け、どこからどこまで元気かくしゃく、ピンピンしている人を私は知っている。

私は去年の10月、脚立から落ちて脳内出血し、意識不明となって、半分死にかかってしまった。なんとか立ち直ったが、以来脚立アレルギーにさいなまれ、脚立は見るだけでもこわくてしかたがなくなった。とてもじゃないが庭師の仕事などできるはずがない。

彼と話していると、あらゆる面で自分の情けなさがつくづく知れて、ホントに泣きそうになってくる。

思えば私の父も石鎚山(西日本の最高峰)に何度と知れず上り、最後は86歳の夏だった。そのとき崖から滑落して遭難したから86歳でやめてしまったが、何もなければ90歳までは登っただろう。90歳まで現役で働いたのだから。

73歳当時の父は今の私とは比べようもなく元気だった。

昼間眠くなるのは生活の不活性に原因がある。日常に刺激がないのだ、要するに。

目標だけは持っている。そして実際、毎日励んでもいる。だが、それと生活の活性/不活性とは別物だ。

活性化は内面の情熱だけで維持できるものではない。外部からの刺激が必要なのだ。今ごろそれに気づいてきた。若いころ、中でも現役で働いていた時分には、何も努力しなくても、外部からの刺激はいつでもあった。

それが、退職して無限の自由を獲得し、さあやりたいことが何でもできるぞと思った瞬間、内面の意欲は高まったにもかかわらず、外部との接触や外部からの刺激が薄れていった。気づかないうちに薄れていった。

はじめの数年はそれと気づかないほどゆっくりした変化にすぎなかったと思う。だが近ごろ、坂道を徐々にすべり落ちている感覚が強くなってきた。思えば、内面の自由を謳歌したいがために、あえて外との接触を断ってきたようにさえ思えるのだ。

今は、外との接触機会は週に一度の絵仲間だけになっている。いつの間にやらそうなっていた。

妻は外交的だから、4つも5つもの組織の役員や会長をやり、週のほとんどを外に出てボランティアに精出している。つらいとも思わず、楽しんでいる。

私も、自分の専門分野である数学や情報処理関係のつき合いが退職後数年間は続いていた。それなりに勉強もし、研究もして、成果を発表し合う仲間がいた。それが自由の謳歌と両立しがたく思えてきて、いつしか足が遠のいていった。

短歌のグループからも遠のいていった。

こうして自ら自分の周りに高い塀を設けてしまい、狭い自己中心の生活の中に閉じ籠もっていった。閉じ籠もるとも思わないまま、閉じ籠もっていった。自由を謳歌しているつもりで、閉じ籠もっていった。

これが今ごろになって、「昼間でも眠い」という症状となって表われてきたのであろう。

そうと気づけば、対処療法はいくらでもありそうだ。まずまっ先にやってみたのは、眠くなるはずの時間帯に外に出て散歩することだった。これまでは夕方暗くなる直前が散歩の時間帯だった。それを2時間ばかり早めてみた。それが2,3日前からのこと。

不思議にも、ただそれだけで無為なうとうとの時間は消えていった。一日が長くなり、充実したわけだ。

あとは、より根本の「塀の取り壊し」に取りかからねば。つまり外部との接触を増やさねば。

コロナによって制限されていた面もある。たとえば私の深刻な持病になっている全身性アミロイドーシス(より一般には多発性骨髄腫)関連の患者会。これはコロナのせいでここ一年開かれていないが、生活を奮い立たせるための大事な刺激剤であった。会が開けるようになれば、参加したいと思っている。

数学と情報処理の会からの誘いも、久しぶりに届いている。会員は多くはないが全国に散らばっているから、今のコロナ時代、なかなか一箇所に集まることは難しい。でもネットやメールを使って擬似的に集まることはできる。久しぶりに顔を出してみようかと思っている。

私のような社交性のない人間にとっては、自由を謳歌して自分の仕事に没頭することと、外部との接触は、二者択一であって、本来両立しがたく思えるのだが、なんとか両立させないとどちらも貫徹できないことに、今ごろになって気づいてきた私なのである。

(2021年3月22日)

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