テーマ:自伝

道後・農事試験場 (7) ~アメンボ,ツユクサ,ユキノシタ,ネムノキ~

 さて、いよいよ農事試験場シリーズも最終回にしたいと考えている。 【アメンボ】 ぼくにとって、アメンボの原風景も農事試験場にある。あの異様に足が長く、水の上をすいすい滑るように動き回るアメンボ。  初めて見たのは小学1,2年生のころ。場所は、「小区画された実験田」と一応ぼくが農事試験場配置図の中で名づけている田んぼである。一枚分…
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道後・農事試験場(6)~広大な圃場の思い出~

 農事試験場のこと。一度は書かねばと思い続けてきたテーマであった。だが、筆を起こしてみると、発掘される記憶はどれも主観に色濃く染め上げられた個人的なものばかり。農事試験場がいかに深くぼくの内面と一体化しているか、主観と客観との明瞭な境界線すらないほどに深く溶けあっているか。そのことに、今さらのように気づかされた。  県民文化会館の礎石…
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道後・農事試験場(5)~サクラ・アオギリの思い出~

 農事試験場には、要所要所にさまざまな木が植わっていた。研究用というよりは、憩いの空間を作ることが目的の木々であった。ぼくの記憶がそのすべてを正確に反映しているとは思わないが、さまざまなエピソードをともなって鮮明に覚えている木々のいくつかを、ここに書き記しておきたい。子供時代の体験には、人が自然と関わる原初的なありようが濃厚に現れている…
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道後・農事試験場(4)~養鶏研究所の思い出~

 そこを遊びの場としていた子供の目から見た愛媛県農事試験場を語っています。しかも、半世紀以上も前のそれです。研究員や講習所生の目で見た農事試験場像とは、当然ながら、視線の方向・焦点の当て所とも、ずいぶん違いがあるものと思います。  今回はまず、養鶏研究所のことから始めます。幼い日々の思い出が染みついた場所のひとつです。 【初めて見た…
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道後・農事試験場(3)~農業講習所、講堂の思い出~

(写真1) (図1) 【講堂および農業講習所のこと】 写真1における黒っぽい二階建ての建物が講堂である。図1を見るとわかるが、事務棟と化学実験棟にはさまれた通路(入口に門はなく、土手が切り取られているだけ)を行くと、正面にズドンと構えているのが講堂である。 ただし、講堂と言えるのは二階の話で、一階はおそらく研究室や農業講…
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道後・農事試験場(2)~構内配置図など~

【農事試験場の構内配置図】 ぼくらが遊んだ農事試験場は、いまや思い出の中にしか残されていない。 その構内配置図を、思い出すままに描いてみた。どこかに資料でもあろうかと、探してみたのだが、見つけることはできなかった。『愛媛県農業試験場七十周年史』(1970年)という公式記録集を見ても、研究成果といういわばソフト面にもっぱらの重点が置か…
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道後・農事試験場(1)~周辺の歴史~

先日来、何度か、子供時代の思い出が濃縮された一帯を歩いてみた。松山市の道後公園から上一万にかけての電車通り沿い、およびその北側一帯である。かつての農事試験場周辺といってもよい。 すでに半世紀が経過し、当時の痕跡は、表通りから見るかぎり、完膚無きまでにかき消されている。敷地の境界線や細い路地も、今となっては、その位置を突き止めることすら…
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テニスコートの記憶

【テニスに夢中】 ぼくはある時期、そうだ、今となってはある時期としか言いようのない過去完了のある時期、テニスに夢中になっていた。持病が突如最悪の事態を引き起こし、倒れ込むように入院してしまうまでの20年間ほどだ。持続したその期間を、今や「人生のある時期」と言わねばならないのは、年を重ねた人間の宿命とはいえ、つらい現実にちがいない。 …
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古時計の話

腕時計、柱時計、置き時計、目覚まし時計。いまわが家にいったいいくつの時計があるのだろう。数えたこともない。数えようとも思わない。動かなくなった時計も数かぎりない。捨てられることもなく、引き出しの奥に眠っている。そして忘れ去られている。 いつだったか、もう20年以上も前のこと。五月晴れの日曜日、受け持ちのクラスの生徒が大挙してわが家…
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新鮮な体験

先日、好天に恵まれて、ぼくが通う教会でバザーがあった。 どの年も、たいていぼくはコーヒー係をやってきた。大型のコーヒーメーカーでコーヒーを淹れ、熱湯で温めたカップにコーヒーを注いでは、チケットと交換にコーヒーを差し出す。小さなケーキも添えて。それがぼくの仕事だった。 一度、ぜんざい係をやったこともある。大きな鍋で小豆を煮、切り餅を網…
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地球儀の歌

地球儀には懐かしい思い出がある。 小学4年生のとき。 ぼくが母に「地球儀がほしい」と言ったのだろうか、それとも母が「地球儀を買ってあげよう」と言ったのだろうか。おそらく前者だ。家には経済的なゆとりなどなかったのだから。 ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ わが家の近所は、ほとんどが職人の家で、地球儀など置いている家は…
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鐘の鳴る丘

先日見た映画『君の名は』。その原作とも言えるラジオ放送は、1952年4月から1954年3月まで、丸2年間続いた。空前絶後の国民的大ヒット番組であった。 放送が流されていた2年間は、いま思うと、ぼくの4歳と5歳の2年間だ。今風に言えば、幼稚園年中組と年長組。 父と母が熱心に聞いていたそばにぼくもいて、話の中身などわかりはしないが、一緒…
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杏夏へ ~35年目の涙~

 還暦ってわかるかな、杏夏。  じいちゃんは、日本がアメリカや中国と戦った戦争が止んでしばらくした1948年2月にこの世に生まれてきた。だから、いま還暦を少しすぎたところなんだ。還暦というのは六十歳になることなんだからね。  じいちゃんのように還暦をすぎると定年というものがあるんだ。  長い間働いてきてご苦労さん、もう…
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『パタゴニア探検記』のこと

(1)  半世紀も忘れ去られたまま一度も想起されることのなかった記憶なんて、もはや記憶の体をなしているはずはなく、溶けて流れて無に帰しているはずと、昨日までのぼくなら考えていたかもしれない。だが、人の記憶というのはそうやすやすと風化してしまうものではないらしい。人生におけるある一瞬、ある対象に意識が照射されたなら、その後はただの一度も…
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朝の香り

(1)  朝は得意な方でない。目一杯寝ていたい方だ。5分おきに鳴る目覚ましの4回目あたりでようやく起きる。もう間に合わないという極限の時間である。  だが、休日となると話はまったく違ってくる。目が覚めて、「あっ、今日は休みだぞ。自由だぞ」と感づいたらもうじっとはしていられない。理性の方は懸命に、「まだ寝ていた方がいいぞ、頭の芯が…
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窓辺

 書斎は2階にあり、隣の日本間とはガラス引き戸でつながっている。その日の気分で二間のどちらを使うかを決める。書斎が二間あるという言い方もできる。新築したのは36の時だった。早いもので、もう四半世紀である。  この36という年は僕にとって忘れられない年となった。35で何があったか、37で何があったかと考えても思い出せないが、36は自…
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一枚の写真から

 アルバムにも貼らず、菓子箱に詰め込んだままにしていた古い写真の中から、懐かしい一枚を見つけ出した。右がそれである。裏に鉛筆書きされた日付を見ると、昭和三十四年一月。五年生の冬である。撮られた記憶はある。それを後でもらった記憶もある。しかし、ずいぶん長くお目にかかったことのなかった写真であった。この写真から様々なことが思い出される。 …
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セキセイインコ

 ある日学校から帰ると、土間に「チッチッ」と耳慣れない声がし、見ると靴箱に鳥かごがおかれていた。中には小鳥が二羽いて、背と尾羽が青や緑や黄色の不思議な色合いに輝いていた。  私は駆け寄ってのぞき込んだ。二羽は、葉っぱをつっついたり、小さな稗の粒を器用に殻をむきながら食べたり、水を呑んだり、止まり木に止まって羽を梳いたり、かたときも…
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パッチン(メンコ)

 関東では「メンコ」(面子)と呼ばれているようだが、私たちはそれを「パッチン」と呼んでいた。子供の手のひらほどの大きさの長方形の紙である。薄いのから厚いのまでいろいろある。なかには丸い形のものもあった。  表にはカラフルな絵が描かれている。戦後すぐのものには、占領軍の影響を受けてディズニー漫画のキャラクタや西部劇のスター、大リーグ…
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学芸会

 松山市立東雲小学校、これが私の通った小学校だ。北隣には御幸中学校があり、両者は校区を同じくするペアの学校だった。御幸中学は、年に一度の学芸会の際、その講堂を会場として貸してもらっていた。  学芸会で歌ったり踊ったりというのは、気恥ずかしくて私には好きになれなかった。しかし、地域の人達が大勢集まってきて、薄暗い会場が「ハレ」の雰囲…
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山茶花(サザンカ)

 サザンカを見ると思い出す。苦しいその日暮らしの中、快活に生きていた若き日の父と母を。あの遠い日々を。立ち止まることなく、身を労働にさらし、それでもなお輝いていた、父や母のことを。その愛を受けて僕が、無心に育ちの日々を送っていたあの頃を。  毎日汗して働き、明日のために祈り、なお満たされることのない日々。そんな中、人はかすかな変化…
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アトリエ

 府中から松山に帰って来たとき、私達夫婦は、「しばらくの間」との条件つきで妻の実家の納屋に住むことになった。納屋は南北に細長い長屋のような構造で、その南の端に、私達のために八畳ほどの畳の間と、押入、トイレ、洗面所が作られたのだ。その上、土壁をくりぬいて、本来はなかった広々とした窓が取りつけられた。台所のないのは不便だったが、まあ一応、夫…
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沈丁花(ジンチョウゲ)

 数年の会社勤めを経て、私は、自分が卒業した中・高等学校に数学教師として戻ってくることになった。もうずいぶん昔のことである。  故郷に帰るとはいえ、さしあたって住むところがない。アパートでも借りようかと、妻と私の双方の両親に、手頃なアパートが空いていないか調べてもらうことにした。  そうこうするうちに、妻の実家から電話があり…
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多磨霊園駅

 もうすでに三十年近く前のことになる。東京郊外の府中で、電機・通信メーカーのコンピュータ部門に勤めていた私は、明けても暮れても「コンピュータ、コンピュータ」の生活に我慢できなくなり、そのとき丁度たまたま話があった今の学校に数学教師として勤めることになった。自分の本来の志向性を確かめた上での転職とは必ずしも言えない、若さにまかせた衝動的な…
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鳩になったTさん

 中学1年生の1学期,まだ初夏とも呼べない時節だったと記憶する。幼いころから兄のように慕っていた3歳年上のTさんが世を去った。  Tさんの家は私の家から3軒隣にあった。ともに大通りから一筋北側の狭い通りに面しており,その通りは職人さんの仕事場,行商人の商い道,そしてまた子供たちの遊び場でもあった。  Tさんは生まれたときから…
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私と囲碁

 私の碁歴はすでに35年ほど。最初に碁盤に石を並べたのは,中学3年の時だった。定石書を買ってきて,訳も分からず並べてみる。盤の左下隅を使って書かれた定石を右下に並べ替えようとすると,もう頭がこんがらがってわからなくなる。形も意味も何も分からず,すべてがおぼろに霞んでいる。指導者もなく,全くの独習である。  こんな出発であったにもか…
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油揚げ屋

 父は生来手先の器用な人で、それに工夫好きであった。戦争前、父はその兄との共同経営で下駄工場を始め、兄の方が経理面、弟である父が技術面を受け持った。当時、下駄は生活の必需品であった。作れば作るだけ面白いように売れて、従業員数も増え、工場の規模はどんどん膨らんだ。順風満帆の滑り出しであった。  そのころ母と結婚した。母は松山市に隣接…
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女の先生

 1954年4月、彼は松山市立東雲小学校に入学した。学校は、松山の中央にそびえる名城・松山城のすぐ北側に位置する。彼が入学した頃、生徒数はピークを迎えようとしており、学校は数の猛威に押しまくられて講堂や体育館までもが教室として占領されていた。まるで奴隷船の船倉である。先生一人に子供が六十名という巨大な構成単位をもった学校で、彼は入学と同…
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亥の子

 秋も深まり11月に入ると,われわれ子供たちは亥の子を心待ちにした。百科事典によると,亥の子の行事は中国に起こり,平安宮廷にもたらされたという。そんなに古い伝統をもつ行事だとは知らなかった。もとは,旧暦10月の亥の日に行われた。  今日,亥の子が全国的な行事として残っているのかどうか,それは知らない。少なくとも松山地方では,子供た…
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松山地方祭から農業祭へ

 10月7日の松山地方祭が終わった後も,子供たちにとっては祭りは終わらない。われわれ北小唐人の子供たちは,松山一大きな子供ミコシをかついだという誇りと興奮に酔いしれ,余韻が1週間あまりも尾を引くことになる。  興奮の中心は樽ミコシである。もらってきた酒樽や醤油樽を胴体にし,その上に四角い丈夫な屋根を取りつける。さらに下側にも板を張…
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