テーマ:松山今昔

時を越えて

 父が生きていたらちょうど今百歳なんだと感慨にひたりながら、数日前、父と母の墓を詣でた。  父は明治45年(1912年)4月12日の生まれ。明治の人だ本人も言い、ぼくも信じてきた。だが、思えば父の明治は3ヶ月半にすぎない。  父は北予中学時代をよく懐かしんでいた。今の松山北高である。  父の在学期間は、秋山好古の校長時代にほぼ重な…
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道後・上一万 ぶらり散策(3)

上は、わが家のクロガネモチにつるしたクリスマスデコレーションです。 さて、子供時代に住んだ上一万界隈を歩いた話の続き。 わが家は電車通りから一筋北にあった。だのに、向かいの家並みが一本そっくり立ち退きに遭った結果、電車通りにむき出しになってしまった。ぼくら一家が引っ越してずいぶん経ってからの話ではあるが、……。 そして今や…
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道後・上一万 ぶらり散策(2)

ぼくの家から道後方面に歩くと、100mも行かないうちに農事試験場に出た。田があり、畑があり、樹木園があり、花畑があり、小川があり、馬小屋があり、牛小屋があり、養鶏場があり、広々とした広場があり、テニスコートがあり、窓からビーカーやフラスコがブクブク泡を出している様子が見える化学実験棟があり、いつもパタパタと女事務員がタイプライターを…
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道後・上一万 ぶらり散策(1)

松山市の旧市街北東部、道後公園から上一万にかけたあたりは、子供時代のぼくの思い出が濃縮しているところ。当時の姿が今もくっきり頭に焼きついている。 初冬の一日、カメラを手に思い出探しの散策をした。 昔のわが家はもう跡形もない。だが、付近を歩くと、かつての名残がかすかに姿をとどめているのが嬉しい。 まずは、かつての豆腐屋さん。建物は昔…
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日吉神社

 私がよく足を運ぶ場所に日吉神社という小さな社(やしろ)があります。ちょっと郊外に出ればどこにでもありそうなありふれた社ですが,訪れる人がほとんどおらず,しかも情趣に富むという点では,ちょっとどこにでもはない社とも言えます。  日吉神社は松山市の東のはずれ,播磨塚と呼ばれる広い台地状の丘の南西斜面にあります。そもそも播磨塚という地…
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亥の子

 秋も深まり11月に入ると,われわれ子供たちは亥の子を心待ちにした。百科事典によると,亥の子の行事は中国に起こり,平安宮廷にもたらされたという。そんなに古い伝統をもつ行事だとは知らなかった。もとは,旧暦10月の亥の日に行われた。  今日,亥の子が全国的な行事として残っているのかどうか,それは知らない。少なくとも松山地方では,子供た…
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松山地方祭から農業祭へ

 10月7日の松山地方祭が終わった後も,子供たちにとっては祭りは終わらない。われわれ北小唐人の子供たちは,松山一大きな子供ミコシをかついだという誇りと興奮に酔いしれ,余韻が1週間あまりも尾を引くことになる。  興奮の中心は樽ミコシである。もらってきた酒樽や醤油樽を胴体にし,その上に四角い丈夫な屋根を取りつける。さらに下側にも板を張…
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早朝マラソン

 小学生の頃、冬休みになると決まって近所の仲間と早朝マラソンをやった。夏休みのラジオ体操と同じく、朝の六時すぎ、早く起きた者から順に誘い合って、三々五々、路地裏の集合場所に集まってくる。日の出前で、まだ外は真っ暗だ。  なぜかこれは我々遊び仲間にとって冬休みの恒例行事だった。大いなる楽しみでもあった。「冬休みには地域ごとに早朝マラ…
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松山市考古館(埋蔵文化財センター)

 愛光のある大峰ヶ台西斜面を南にたどると、1キロ足らずの距離に、松山市考古館がある。前には池、うしろには山。春の花どきや秋の紅葉どきには、一幅の見事な風景画の中に治まっている。  この考古館は1989年10月に開館した。パンフレットを引用すると、「内容、規模ともに四国一を誇る考古館。石器や土器、古照遺跡からの堰(セキ)など、旧石器…
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大宝寺・うば桜

 大峰ヶ台の南斜面、ひっそりとした住宅街の奥に、大宝寺がある。愛光からだと大峰ヶ台の山頂をはさんでほぼ反対側にあたり、歩くと15分から20分の距離である。 大宝寺山門(道の奥)  山の中腹にあって、登り口の山門をくぐると、石段が続いている。まわりを木々に囲まれ、情趣あふれる石段である。登り切ると、やや開けた境内となり、正面に国宝の本…
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松山市総合公園(大峰ヶ台)

 松山平野には100メートル前後の高さの小丘陵がいくつも点在している。まず平野の中央部に位置しているのが、松山城を擁する城山。かつてそれは2つの丘陵からできていたという。加藤嘉明が江戸初期にこの地に城を築いたとき、連なった2つの丘陵の間の谷を埋め、一つの山として造成したらしい。その継ぎ目の、かつて谷であったところに井戸が掘られ、その深井…
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農事試験場

 上一万と道後の中間にある電停をかつて「南町停留所」といった。今それは「県民文化会館前」である。電停北側に「愛媛県県民文化会館」ができ、電停の名称も変わった。  県民文化会館は、「西日本有数の規模と設備を誇る文化会館」とのふれこみで十年ばかり前に作られた。たしかに地方都市のこの種のホールとしては第一級のものであり、立派な外観が静か…
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秋祭りの思い出

 全国に名城と名のつく城は多いが、松山城はその中でも最上級の部類に属する城だと思う。松山の町のど真ん中にそびえる100メートルあまりの山の山頂にあって四囲を睥睨していること、山全体を城郭とする立体的かつ広大な規模の城であること、天守閣の姿が見事なこと、などがその理由である。  松山はこの城山を中心に開けた、典型的な城下町である。城…
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ダンスホール

 ダンスホールは戦前からあったらしい。だが、戦前のことを私は知らない。終戦後、服も食べ物もろくにない焼け焦げた日本の都会で、人々が明るい希望を求めて集まってきたのは、ダンスホールか喫茶店であった。全国いたるところ、都市という都市には必ずダンスホールがあり、青年男女の社交の花が開いた。恋が芽生え、愛が語られた。ハイカラな老紳士、老婦人も出…
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ラジオ体操

 調べてみると、ラジオ体操が日本で始まったのは1928年。すでに70年の歴史をもっている。ただ、今のように夏休みの早朝、子どもたちが体操カードを持って集まるといった習慣ができたのは、おそらく戦後のことだろう。ラジオ体操の始まり自体がアメリカの模倣だったというから、体操カードを持って集まるというシステムは、あるいはアメリカ進駐軍の発想だっ…
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上一万

 湯の里・道後から2キロばかり市の中心部に寄った大きな四つ辻が上一万 (カミイチマン)である。交通の要所である。上一万から西へは銀杏並木の美しい平和通りがまっすぐに伸びて、かつて松山の中心的繁華街であった本町、古町(コマチ)方面に続いている。南へは市電の走る勝山通りが。北は、松山のニューベッドタウンに変りつつある高台の伊台方面に続く。東…
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