道後・農事試験場(4)~養鶏研究所の思い出~

 そこを遊びの場としていた子供の目から見た愛媛県農事試験場を語っています。しかも、半世紀以上も前のそれです。研究員や講習所生の目で見た農事試験場像とは、当然ながら、視線の方向・焦点の当て所とも、ずいぶん違いがあるものと思います。

 今回はまず、養鶏研究所のことから始めます。幼い日々の思い出が染みついた場所のひとつです。

【初めて見た孵卵器】

 図1で、「鶏」と書いた建物が、ぼくの言う養鶏研究所(正式な名称は知らない)である。写真1では、黒っぽい講堂の右下にその建物が見える。小学校低学年のころにはずいぶん古い建物だったと記憶しているのだが、高学年になったころ建て替えられた。写真1(1962年)は、新しくなってからのものである。

(写真1)

minamimachi1962b.jpg

(図1)

nojishikenjohaichizu1.jpg

 ぼくの記憶は古い建物の時代のものだ。小学1,2年生のころである。

 7つ年上の兄が、松山市の西の外れから来た友人と農事試験場に出かけ、ひよこを数羽もらってきた。その友人というのは、後に、学校でぼくの同僚になった人で、ひよこの話や、「小さい弟がおったよなあ。あれが君かあ」などと、当時を話題にしたことが何度かある。

 行けばひよこをもらえると聞いて、ぼくも何日かして、大工屋の子や荒物屋の子や夜鳴きソバ屋の子供を誘って、農事試験場まで駆けていった。ドアをトントンともせず、声もかけず、いきなり養鶏研究所の入口の戸を開けると、薄暗い土間でおじさんが一人、なにやら棚のものを整理している最中だった。

「こら、坊主ら、何しに来た」

「ひよこをもらいに」

「ただでやるひよこなんぞないぞ。小遣い持ってきたか」

「お金いるんですか。いくらですか」

「メスはやれん。オスなら二羽で一円じゃ」

 ぼくらにお金などあるはずはない。「兄ちゃんが、ただでくれる言うとったのに」とぼそっとつぶやいたきり、当てが外れた無念さは胸にしまいこんで、おじさんの仕事を眺めていた。

 今で言えば電子レンジかオーブンのようなものが壁際に並んでいた。おじさんは一番手前の装置のフタを開けて、中を覗かせてくれた。卵が並べられていた。

「孵卵器というんじゃ。この中で卵が孵って、ひよこが生まれるんじゃぞ」

 内部は赤く照らされていて、卵も真っ赤に火照っていた。あったかそうだ。

 「フランキ」という言葉とともに、ぼくはあの燃えるような赤い光を生涯消えない記憶として焼きつけた。

 奥の方では、生まれたばかりのひよこや、少し大きくなったひよこが、ピヨピヨ鳴いていた。さらに奥には、大人になったニワトリの棚もあった。

 奥の部屋から別のおじさんがでてきた。

「この子ら、小遣いないんじゃろ。少し分けてやったらどうじゃ」

 そう言って、棚から菓子箱をひとつ取り出すと、地面に置き、生まれたばかりのひよこの群れからオスをつまみだしては、入れてくれた。ぼくらは突然の幸運に、わくわくしながら地面にしゃがみ込み、箱の中にひよこが一羽ずつ増えていく様子を眺めていた。箱はたちまちいっぱいになった。

「持って帰って、みんなで分けるんじゃぞ」

 箱を水平に支えて、ひよこが転落しないように気をつけながら、おそるおそる家まで運んだ。ひよこが動き回ると箱の重心が変わり、そのつど水平に持ち直さないといけない。その不安定なぎこちなさが、ぼくらにはこの上なく楽しかった。

 ぼくらはそれからもしばらく、ひよこの群れを見に孵卵場に通った。ひょっとしてまた菓子箱にひよこを入れてくれはしないかと、かすかな期待も抱きつつ。だが、ひと月も経つころには、いつしかひよこへの関心は薄れ、ぼくらの遊びも変わっていって、養鶏研究所は、ただそこにあるというだけの存在になってしまった。


【石柱で遊ぶ】

 化学実験棟と事務棟の間の通路は、たいていいつも日陰になっていた。両側から二階建ての建物が迫っているため、直射日光が当たる時間が限られていたのだ。しかも、なぜか土が黒っぽく、見るからに薄暗い場所だった。

 でも、ぼくらはよくそこで遊んだ。それには理由があった。化学実験棟の建物に寄せて石柱が何本も転がっていたのだ。子供の目線では40×40×200cmくらいの大きさに見えた。実際は、30×30×150cm程度だったのかもしれない。それが乱雑に20本ほども放置されていた。

 中にはブリッジ状に置かれているのもあり、子供には魅力的な遊び場だった。ぼくの記憶に残るかぎり(つまり小学生だった6年間ずっと)、石柱は一本たりとも動かされた形跡がなかった。

 小さいころは隠れん坊をした。体を丸めると、石柱の陰にちょうどすっぽり収まった。大きくなると、石の上をトントンと飛び渡って、鬼ごっこをした。二段重ねのところや、石と石が大きく引き離されたところがあって、ジャンプ力を競い合いながらの楽しい遊びだった。

 石柱は窓から化学実験室をのぞき込む踏み台にもちょうどよかった。

 今思うと、講堂の高床式の一階に上がる石段が、あの石柱でできていた気がする。講堂だけでも、南の正面入口、北の裏口、さらには東西に延びる廊下が突き当たった東と西にも石段があった。別の建物にも使われていたかしれない。これらのために用意した石柱の残りが無造作に放置されたまま、ぼくらの格好の遊び道具になっていたのであろう。


【タイプライター】

 事務棟も、窓から中が丸見えだった。特に講堂側の北面は昼間でも暗いから、窓にシャッターが下ろされることはなく、いつでもぼくらの目にさらされていた。

 ぼくが興味をもったのはタイプライターだった。女の事務員がパタパタとタイプしているのを、ぼくは飽きることなく窓から眺めていた。おそらく中からも、背伸びをして首だけ出したぼくらの顔は見えていたはず。だが、気にとめている様子はなかった。

 パタパタと打ち、端まで行くと、ガシャッと音がしてタイプのハンマー部が行の先頭に移動し、そこからまた次の行を打ち始める。際限なくこれをくり返すのである。1ページを打ち終わると、紙を交換してまた次を打つ。実に単調なくり返しなのだが、常に何かが動いて先へ先へと進んでいる実感がぼくをくぎづけにした。

 今気づいたのだが、この事務棟、はたして講習所の一施設だったのだろうか。地理的な配置でいえば明らかにそうなのだが、学生が100名にも満たない講習所の事務のために、二階建ての大きな建物が必要になるはずはない。なら、農事試験場本体の事務を扱っていたのだろうか。それもちょっと考えにくい。そうした事務全般に供するためにこそ、本館という建物があるのだから。

 そう考えて、はたと思い当たったのだが、あの事務棟は、講堂や化学実験棟に向かっては開かれていなかった。そちらの側には、非常用出口も含め、いっさい出入り口が開かれていなかった。正面玄関は南にあり、非常用出口は、もしあったとすれば西側だった(ぼくの記憶にはないのだが)。しかも、図1にさりげなく点線を引いておいたのだが、事務棟の東壁面を延長した土手までの部分には、1mにも満たない低さとはいえ、木の柵があった。

 つまり、事務棟はあの一角において完全に孤立した構造をもっていた。その上、図1で「C」と書いたところに、事務棟のための入口(土手が切れている)があるのだが、そこにはたしか開き戸式の門がついていた。独立した施設だと宣言しているかのように。

 これらを総合して判断すると、あの事務棟は民間の事務所だったと考えられる。農事試験場のものでも、講習所のものでもなかった。その傍証にもなろうが、現在、あの事務棟の場所には民間のマンションが建っている。ただし、かつて講堂があったあたりまで北に延びてはいるのだが……。

 なぜあの場所に民間のマンションが建っているのか、つい昨日まで、ぼくの疑問のひとつだった。今の今、それへの答えが出た気がする。ちなみに、マンションを除いた他の敷地は、今も県に関係する施設である(主要部は県民文化会館)。

 ついでに書いておくと、1mにも満たない高さのあの木の柵は、ぼくらにとっては柵ではなかった。乗り越えるための遊び道具にすぎなかった。講堂や、その前の石柱のあたりで遊ぶときですら、わざわざ「C」の位置から入り、柵を乗り越えていくのがぼくらの経路だった。


【写真1に写りこんでいるもの】

写真1には講堂(黒っぽい二階建て)、養鶏研究所(講堂の右下)以外にも、いくつかの建物が写っている。

● 電車のすぐ右は化学実験棟。総二階ではない。あるいは、左半分(南半分)は一、二階とも官舎だったのかもしれない。そのあたりの一階出入り口から、奥さんや子供が出てくる姿をよく見かけたから。実験室は右半分(北半分)だけだったのだろうか。

● 化学実験棟にほとんど隠されているが、その向こうに事務棟がある。大きな屋根だけが見える。写真では見境がつきにくいのだが、化学実験棟の二階の屋根は単なる三角形にすぎず、それをおおうような大きな屋根はそっくり事務棟の屋根である。

 写真でわかるが、事務棟と講堂では、同じ二階建てでも、講堂の方が高い。それは講堂が高床式だからである。

● 講堂の右、養鶏研究所の上に、独身寮の屋根が見える。屋根は二段になっているが、高い屋根の向こう側にも低い屋根があり、全体として左右対称形であった。写真では奥行きが感じられないのだが、東西に長い建物だった。真ん中に廊下があって、南と北に個室がある。しかも二階建て。寮の希望者をすべて収容できる規模であったと思われる。

● 電車の左奥に、上一万から伸びてくる細長い三角形状の家並みが見える(「大」の字が読める看板が最先端)。最先端部は鋭く尖っているので、家は建てられず、大工の資材置き場になっていた。

 その三角形状の家並みの右側に、奥に向かって道がある。車一台は通れるが、二台はすれ違えないほどの道である。その道を入った五軒目の右側にわが家があった。この写真にかろうじて写るか写らないかの位置だが、写真の精度が粗くて見分けがつかない。現在はその道が、電車通りに向かって直接剥き出しになっている。




(2010/12/15)




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