道後・農事試験場(6)~広大な圃場の思い出~

 農事試験場のこと。一度は書かねばと思い続けてきたテーマであった。だが、筆を起こしてみると、発掘される記憶はどれも主観に色濃く染め上げられた個人的なものばかり。農事試験場がいかに深くぼくの内面と一体化しているか、主観と客観との明瞭な境界線すらないほどに深く溶けあっているか。そのことに、今さらのように気づかされた。

 県民文化会館の礎石の下に踏み砕かれたあの世界には、もはや客観的記録の値打ちはないのかもしれない。それどころか、客観性を頑迷に拒否する硬直性すら感じられる。特殊にそれへ没入したぼくのような者を別とすれば、農事試験場はもはや忘れ去られた過去の一事象にすぎなくなってしまったようである。

 客観性を追うことはもはや幻影にすぎないのだろうか。過去にたしかに実在したそれに価値と意味を見出すことは、いまや感傷以外の何物でもないのだろうか。

 半世紀を経た今なお、ぼくの目の奥には、あの広大な敷地の一断片までもが、当時のままにありありと、濃艶に実在する。にもかかわらず、それを語り、その中に投影された自我を懐かしむことは、ノスタルジーにすぎないのか。退行的な感傷なのか。ありもしない幻影にぬくもりを求める現実逃避にすぎないのか。

 いや、そうではなかろう。いま気がついた。逃避でもなければ感傷でもない。神話である。ぼくにとって、農事試験場はまさしく神話なのだ。不滅かつ永遠なる神話なのだ。

 そこにかつて存在した個々の実在、建物も、門も、柱も、小川も、木も、土も、草も、生き物も、ぼくとともにそこにあったすべての実在は、ぼくにとって、アポロンなのだ、ディオニュソスなのだ、ゼウスなのだ、アテナなのだ、ヘラなのだ、ニンフなのだ、パンなのだ、ヘファイストスなのだ、アルテミスなのだ、アフロディテなのだ、プロメテウスなのだ。永遠に死を持たぬ神々なのだ。人間の内在に深く関わり、人間のあらゆる感情に共感できるギリシャ神話の神々なのだ。ホメロスが高々と歌い上げたイリアスの神々なのだ。ぼくの運命を支配する神々、必然を支配する神々なのだ。幼児期を脱却し、少年期に入ろうとするぼくのすべてを知り、すべてにかかわった神々なのだ。ぼくの少年期は神々とともにあったのだ。


【小川】

(写真1)
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 農事試験場の南半分は研究・教育施設、北半分は子供の目には無限の広がりをもつ圃場(田んぼ)であった。上の写真1は圃場のほぼ全景を、南西から北東に向けて撮ったもの。下の方に幾棟かの建物が横に並んでいる。それが研究施設の北限である。左下の、手前を向いた白壁の建物は馬小屋である。写真には写っていないが、馬小屋の左にテニスコートがあり、そこはぼくらの三角ベース野球の拠点だった。ボールが馬小屋を越えるとホームランというのが決まりであった。

 南北の境に小道があり(上の写真では建物の影になっている)、その道にぼくらは数知れぬ思い出を刻んだ。

 道に沿い、小川が流れていた。水源は道後公園の掘(湯築城の掘)か、石手川の分水か。いずれとも知らぬが、年中涸れることのない、さらさらと水を流し続ける小川であった。

 ぼくが「小川」という言葉で思い浮かべるイメージは、いつもその小川だ。農事試験場の小川はぼくの小川の原風景である。


【箕とドジョウ】

(写真2)
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 夏が来れば、ぼくらは竹製の箕(写真2)とバケツを持って小川に出かけた。裸足で小川に入り、箕で泥をすくう。それを2,3人がかりで持ち上げて道に下ろすと、中にはさまざまな生き物が入っていた。ドジョウがいる。小さなエビ、シジミ、タニシ、サカマキガイも。それに名も知らぬ小魚も。選り分けてバケツに入れるのだ。

 一つ上にカズちゃんという子がいて、生き物を見分ける名手だった。手先が器用で、一つことに集中できて、ねばり強く、小さな生き物も決して見逃さない。泥をかき回して箕をすくい上げるのはぼくらの仕事だが、それを丹念にかき分けて検分し、生き物を選り分けるのはもっぱらカズちゃんの役目だった。ぼくらは、その仕事ぶりを呆然と見つめているばかりだった。

 秋祭りの時期には手作りミコシで遊んだ。ミコシにわら縄を巻きつけるのもカズちゃんの仕事だった。ぼくらがいい加減に巻きつけたのを見逃さず、いちいちほどいては丁寧に巻き直した。ぼくらはあっけにとられて手伝うことも忘れていた。

 中学生になるとカズちゃんは屋根裏部屋で伝書バトを飼い始めた。こまごまと親身に世話をし、鳩と寝食を共にしているとまで言う人がいた。

 中学を出るとすぐ、大工の見習い職人になった。やがて腕の立つ大工になったが、まだ独り立ちするには間のある二十歳代前半、病に倒れ、死んでしまった。ぼくが大学生のときだ。休暇で帰省したとき、カズちゃんの弟から、死んだと聞かされ、驚いた。

「兄貴は飲めもせんのに、つきあいを断れんでのう。毎日のように飲んどった。しまいにはアル中になって、肝臓をやられて死んだんじゃ」

 箕を検分していて、ドジョウを見つけたときのカズちゃんの嬉々とした目の輝きが、そのときぼくの脳裏に突如浮かんできた。


【ヒルの思い出】

 裸足で小川に入ると、水草がぬるぬると足元をくすぐり、川底の小石や貝がちくちくと足裏を刺す。それは感触でわかるが、ヒルはひそかに足を這い上がる。水から上がってはじめてわかる。

「あっ、ヒルが足に吸いついとる。たたき落とさんと血を吸われるよ」

 そう言われて、ヒルというものを初めて知ったのはいつだったのか。場所だけははっきりしている。テニスコートの西沿いの小道が小川にぶつかったところ。そこに小さな石の橋があった。幅30センチ、厚さ7,8センチの石の板が2枚並べられていた。踏み石という程度の橋だった。

 その橋のすぐ下だ。本当に血を吸われたのかどうか。ともかく、ぼくは恐怖でヒルを払い落とした。簡単には落ちないのを、指でつまんで引き離しながら、なんとか払い落とした。3匹ほどいた。

 そのときの光景が、ぼくにとってのヒルの原風景となっている。今に至るまで、ヒルを見ると、小さな石橋のそばで足に吸いついたそれを払い落としたときの、あの一瞬の恐怖を思い出さずにはいられない。

(写真3)
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かつての小道と小川。小川は今は暗渠になっている。馬小屋の横あたりから西を見ている。左の建物がテニスコート跡に建った国際交流センターで、その手前の砂利の敷かれた駐車場のあたりに馬小屋があった。


【めだかの学校】

 澄んだ小川にはメダカがたくさんいた。メダカを採ろうと考えたことはなかった。それはあまりに清楚で純潔だった。ぼくらはメダカの群れを見つけると、じっと立ち止まって、素早い動きを目で追い、「めだかの学校」を歌いながら、あれが先生じゃ、あれが生徒じゃと、本気で言い当てっこをしたものだ。無垢な子供たちだったと思う。


【草舟流し】

 小川にはまだまだ楽しみがあった。草舟流しだ。草舟流しは上流から始めないと面白くない。道後公園に遊びに行った帰り道が、もっぱらぼくらの草舟流しの舞台となった。

 最初に草舟流しを知ったのは、小学3年生のときだろうか。

 冬休みになると、ぼくらは真っ暗なうちに起き出し、凍りつくような寒さの中を、道後公園まで走った。近所の子供10人ほどの冬休みの恒例行事だった。誰が言い始めたのか、ぼくらより前の世代の子供たちもやっていたのか、学校でそういう指導があったのか、他の町でもやっていたのか。ぼくには今でもまったくわからない。とにかくぼくらは、冬休みになると、日がまだ東の空を染めないうちに起き出し、起きてこない子の家には大声で呼びに行き、集まると軽い準備体操をし、タオルを首に巻いて電車通りを東に向けて走った。

 ゴールは道後公園の北のはずれ、新温泉の前だった。新温泉は観光客を相手にしない、地元の庶民向けの安い温泉だった。終戦後の昭和23年3月にオープンし(ぼくが生後1ヶ月のとき)、昭和54年1月に廃止された。今や影も形もなく、記念する石碑の一本も立ってはいない。

 草舟流しを知ったのは、早朝マラソンの帰りだった。帰りは電車通りではなく、必ず一筋北の、例の農事試験場を二分する小道を歩いた。帰途につくころには東の空は朱に染まり始める。それを背後に感じながら、実にさまざまな遊びをぼくらは考えついたものだ。その一つが、草舟流し。

 二つ年上のテルちゃんという子が最初だった。テルちゃんは細長い草を一本引き抜き、さりげなく川に流した。草はぼくらの歩調に合わせて、ぼくらと一緒に流れ下った。それが面白く、みんなもそれぞれに自分の草を抜き取ると、それとわかる特徴をつけ、まるで自分の分身をそこに見るように、どこまでも追いかけた。

 草の動きは千変万化だ。さざ波にゆらゆらと揺れ、小石が水面から突き出したところでは、するっと素早く進路を変え、岸に接近すると速度を落として、ときに水草や芥につかまってしまう。また、小さな滝が随所にあり、滝壺に落ちると、くるくると回り続けて抜け出せなくなることがある。

 ぼくらは大声で分身を声援し、身動きがとれなくなると、小石を投げて救い出す。こうして農事試験場まで戻ってきたころには、空はすっかり明るんでいる。


【いたずら】

 早朝マラソンの帰りは、いたずらっ子の出番でもあった。いたずらは、牛乳飲みと呼び鈴押し。

 牛乳飲みとは、玄関先に配達された牛乳ビンを飲み干してしまうことだ。あとで牛乳を取りに出てきた奥さんの困惑顔が目に見えるようで、ぼくにはとてもできなかった。しかし、「やめとけや」と諫めるわけでもなかった。見てはいけないおぞましい地獄絵を見たような、不快な胸苦しさを覚えるばかりであった。

 呼び鈴押しは、これに比べると子供っぽい。玄関の呼び鈴を押し、家の人が出てくる前に走って逃げるというもの。誰にも気づかれないように押すのが遊びの遊びたるゆえんで、いつ誰が押したのかわからない。押した当人は素知らぬ顔をしていて、頃合いを見て駆け出す。一人が走り出すと、みんな「あっ」と叫んで逃げ出す。気づかずに逃げ遅れると、無実の者が、出てきた人からお灸を据えられることになる。

 小心なぼくはもっぱら逃げ役を演じるだけであった。


【凧揚げ】

 広々とした圃場が、縦横に駆け回れる遊び場になるのは、稲の刈り取りが終わる秋から翌年の春まで。中でも正月の凧揚げは圧巻だった。普段はぼくらのグループだけの遊び場だと勝手に思い込んでいた刈り取り跡に、凧揚げの時期が来ると、周辺の見知らぬ子供たちが大挙して集まってくるのだ。ぼくらが手に手に凧を持って到着したときには、すでに空高くいくつもの凧が舞い上がっていた。

 凧の種類はさまざまだ。店で買った凧を揚げる子供など、ほとんどいなかった。誰もが自分で凧を作り、それを揚げた。ぼくも冬休みになると真っ先に竹ひごと障子紙で凧を作った。単純な角凧だった。器用な子はやっこ凧を作ったし、ひし形の凧もあった。中には、立体的な飛行機凧もあり、よくもそれが空に舞うものだと感心した。数珠のようにつながった連凧を見たのも農事試験場の刈り取り跡だった。

 見知らぬ子たちに混じって凧を揚げるのは、ちょっと怖いようでもあり、またなんだか晴れの舞台に立ったような晴れがましさをも感じた。一挙手一投足を見られているような不思議な緊張感が、正月の凧揚げにはつきまとった。一種のデビュー体験であった。


【麦畑】

 広い圃場のいくつかの区画には、冬の間、麦が植えられた。それが春になると伸びてくる。十分に育った麦畑は、ぼくらに隠れん坊の絶好の場を提供した。麦の中に入り込むと、なかなか見つかるものではなく、また麦特有の芳香をともなった密室感がぼくらを異世界に導いてくれる。

 「夕空晴れて」の替え歌に、「だれかさんとだれかさんが、麦畑。チュッチュチュッチュしている、いいじゃないか」という歌詞がある。まさにあの歌詞の通りの実感。それが麦畑の中だ。きっとあの替え歌を作った人は、子供時代に麦畑にもぐり込んだ体験を持っているのだ。

 ぼくらは精一杯、春になると麦畑を楽しんだ。禁断の果実を口にするような、ひそかな甘い罪悪感すら抱きながら……。

 そうなのだ、麦畑での隠れん坊は、なぜか女の子たちのグループと一緒のことが多かった。普段の遊びでは、遠くに姿を確認してはいても、女の子たちとは常に一線を画していたぼくたちなのに、なぜだろう。不思議なことだ。理由は思い出せない。

 麦の中に隠れていて、ふと女の子に遭遇し、二人きりの閉じた空間に閉じ込められたときの、決まり悪さと、甘やかなときめき。一度きりの体験ではあるが、今も思い出される。4年生だったろうか、5年生だったろうか。


【レンゲ畑】

 農事試験場では、春になると、必ず一つか二つの区画がレンゲ畑になった。考えてみると、郊外の田園地帯でも近ごろはレンゲを見かけることが少なくなった。人工肥料があるから、レンゲで土を回復させる必要がなくなったのだろう。

 レンゲ畑にしゃがんでいると、男の子も女の子も、必然、遊びの種類は同じになる。レンゲやシロツメグサを摘み集めては、花輪を作るのだ。作った花輪を月桂冠のように頭にのせる子もいれば、ネックレスにする子もいる。

 凧揚げの季節と同じく、レンゲの季節にも周辺の子供たちが大勢群がってきた。知っている子も知らない子も、男の子も女の子も、みんなひたすら同じ遊びをした。花に囲まれている喜びは、誰にとっても同じなのだ。

 ぼくにとってのレンゲとシロツメグサの原風景は、言うまでもなく、農事試験場でのあの花輪遊びである。この春、孫とシロツメグサで遊んだときにも、ぼくの脳裏にはあの情景が浮かんでいた。


 ああ、まだ書き残しているようだ。今回で終える心づもりの農事試験場シリーズだったが、あと一回は続けねば。




(2010/12/24)




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